ディアマイフレンド つづき
マイフレンド先生が前回のブログの文章を読んでくれたらしく、メールをくれた。
そこで、求められていないのにさらに返事を書いてみる。
「求められてないのにする」っていうのが、なんか全部そういうことなのかなっていう気がしている。
ブログのようにオープンな場で自分について書かれるのは、
プライバシーのこともあるし、
また、(私にとっては趣味であっても)逐一打って返す(ヒットエンドラン?)ことによって相手に与えてしまうプレッシャーとかがあるみたいで、すごくドキドキさせちゃうから、引用せずに、フィクションで返事をするということにトライしてみる。
難易度たけー!! もえるっっ
これぞ、流行りの? エアーで? お返事?
わからんけど。
(だから、お返事のお返事は気にしないでくださいね~~。という意味。)
マイフレンド先生がおもしろい(すてき)のは、私みたいにジャッジしないことだ。
私と同じ悩み派で、私とよく似たことについて苦しみ悩んでいるし、些細なことでショックを受け引きずるのに、他者を憎まない。
(他者っていうのはこの場合、自分と違う人のこと。考え方とか、考えること自体の有無やその深度もふくめて。)
悩みの多くが、その他者との違いによって陥る孤独や孤立感、虚しさによるものなのに、マイフレンド先生はその原因である他者を憎まない。怒るけど、どちらかというと嘆く方に近く、怒りはその個人に向かわない。罪を憎んでってやつに近い。私のあこがれる境地だ。根に持つ私の在り方とは違う。
そのことが本当にすごいといつも思う。
(今、Eテレの「100分de名著」が三木清の『人生論ノート』で、「憎しみ」と「怒り」の違いについてやっていて学んだ。「怒り」は公への憤りっていう感じに近く〈義憤や公憤?〉、「憎しみ」はマグマのようにたぎらせてつのらせ、積もらせていくもの。)
それで、マイフレンド先生はそのことに気付いているのかどうなのかわからないけど、私にそう言われてもとくに変わらずにいるから、もともとそういう人なんだと思う。
私はそこが好きで、とても尊敬している。
今回の私へのお返事メールの中でも【引用はするまい!! なので安心してください】、
すごくこだわってしまう自分(マイフレンド先生自身)とは考え方の違う仲間のことを私に対して説明していて、読みながら私はその仲間に対してすごくイライラしてしまうんだけど、
マイフレンド先生は、最後のまとめで、
「それで、ベテランの〇〇さんは私の疑問を聞き、資料を確認し、紳士な態度ですべての出来事を眺め、流す。」
と書いていて笑った。
~、流す。って!!!
笑笑笑。
私が書いたら激怒憤怒で怒りのあまり殺しちゃうんだけど(文章で)、マイフレンド先生はそうじゃない。
「~、流す。」って言葉でシンプルに……流す! 笑
ここには悪意もおそらく皮肉もない(これは衝撃。ちょっと真意を聞いてみたい)。単なる事実の描写って感じ。
私の手にかかると、
「~流す。」って言ったけどコレ皮肉だからなっ! 単なる「傍観者」のことやで! ベテランだろ、何してんだよ目の前の困っている人をちゃんと見ろよ、悩めよおおおおお……!!!!🔥🔥🔥
って、使える言葉をフルに使ってボッコボッコに罵倒するところだ。
マイフレンド先生が事実をシンプルにとらえて伝えてくるのは面白いと思う。
人の分まで怒る(恨み、憎む)私とは、良いバランスなのだと思う。
理系と文系の違いなのかな?
先生の話は、言葉によって理解しようとし、言葉によって解消しようとしながら言葉によって縺れていく私を、いつもハッとさせる。
言葉にはよらないあり方で(でも言葉で)物事をとらえ、考えようとするマイフレンド先生と、言葉によって怨みを晴らしたがる私。
状況は変わらなくて、いずれにしても苦しい。苦しいことに変わりはない。でも、先生がやむにやまれず伝えてくれたことを私が聞いて、こうやってフィクションを加えながら面白い作品にして、先生がそれを読んでくれたらいいな。今私ができること(したいこと)ってそれしかないなーって思った。
コラボっす。