お話を聴く会が終わりました❀③
お話会が終わった後に、振り返りの時間があったのがうれしかったのです。
それは私にとって、まるで「お話会パートⅡ」のようなものでした。
それぞれの用事に合わせて、6人→4人、4人→3人と、少しずつ人々が帰って行って、残った人たちで、なんとなく「今日どうだった?」の話になった。
反省会大好き典型的ジャパニーズ(なのか? 笑)の私は、「で、どうだった?!」という「振り返り」をいつも聞きたくてたまらない。
というより、言いたくてたまらないのだと思う。
べつに褒めてほしいというわけじゃなくて(そういうときもある)、
「これがうれしかったの!」
「このことを発見したの!」
「これに感動したの!」
と今言いたくてたまらないし、そういうはっきりとしたものにまだなっていない感情について話したいのだ。
話しながら見つけていくことや、知っていくことがあるし、それには他者が必要みたい。
「そうかあ」とか「うんうん」とか「…せやな!」という、ありがたき相づちがあって、同時に、他の人達のもった感想を聴いて、そうしてまた私は張り切って考えることができるようだ。
それは、「うまくいったとき」に限らない。「反省会」の名の通り、まじで反省したい時こそ、一人では居られない。
いや、どうせ帰って家で一人で反省するのだ。それも数日にわたって延々。
でもそんなのは一人すぎるから恐怖で、できることなら人と一緒にしていたいんだよ。
「反省会」で一緒に話しながらたどり着いたことについて、teracoのまみさんが書いていた。
先日の渡邊恵さんの
お話会での
teracoかれーパン生きたお話の横で
できあがってゆく生きたジビエかれーパン
軸となったのは
椅子や太鼓をつくる大学生の就職活動と
現役先生の海外での話でした
その人の中にあるものや、行動の動機になるものをちゃんと聞くことで
「ある」気持ちがなかったことにならない
なかったことにしてしまうこともたくさん有ると思うんだけど共有することにより
(だれかを変えようとか攻撃するとかでなく)
いつか自分の中でもなにかが育っていくようになるのだなーと思います
みんなで一緒にお話を聴きながら、
話さなければ無かったことになるんだなあ~って思いました。
本当はあるのに。
一人ではなかなか深く掘り下げないし、メモもできない時がある。
そうして忘れてしまう。
(りんりんちゃんと生徒さんたちの共通の恐怖は、「日本に帰ったら忘れてしまうこと」だったらしい。これも切実で、純粋すぎて、愛おしくて泣ける。)
自分だけではわからなかった(けど、何か心に引っかかっている)ことは、
誰かに向けて発されて、誰かに受け止められて、見えるものになる。
なんだかバレーボールのトスみたいに、ポーンと打ったり打たなかったりして、拾ったり拾われたりしていくものなのだと思う。
拾えなくても、誰かの、みんなの心の中に確実に跡をのこす。
かよちゃんが、「誰の中にもお話があると思う」と言ったのは、私にとっての大きな希望だった。
こんなふうに若い人が、そういうことを信じて、言ってくれている。
「自分の中のお話」を表現する手段は、必ずしも「言葉」でなくて(楽器や音楽かもしれない!)、
「(私と)同じ言葉」でもないのかもしれず、
また、もしかしたら「言葉にする」ということに慣れていない場合だってあるのかもしれない。(私が楽器や音楽に慣れていないように。)
でも、無いわけじゃないんだ。
聴いてもらうこと。
言ってもいいのだと、家族以外の他者に待たれること。
その時間を複数の人と共有すること。
それは、「一ヶ月で100万稼ぐ方法」でもなければ、「フォロワーを1000人に増やす方法」でもなくて、即効性や具体性とは縁遠く、心もとなくて、やっている本人たち(みんな)もどこか不安そうで、何より私がいちばん頼りない。
でも、たぶん、そういうことでしかないのだと思う。
たしかなことはちょっと怪しい。
断言するのは怖い。
疑いながら揺れながら、目の前の人の話を聴くしかないのだと思う。
でも、「聴きたい人」は私だけではないのだった!!
私が慣れない「司会」に舞い上がり、頭がポーッとなっていても、そのときその人の話を聴いていた人は4人も5人も居たんだよ。
これが希望でなくてなんだろう。
またみなさんのお話聴きたいな~☘