むりむりちゃん日記

私が孤独なのは私のせいではない

変わらないこと

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ピーナッツの妖精???


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無観客展示前夜

 

 

3日ほど前に、広島に行きました。

新しい友達が、いっしょにどう? と誘ってくれて、嬉しかったのでした。

数日前から平和記念資料館は休館していることは知っていたけど、

せっかくだからキャンセルはせずに広島行ってしまおうか~と決めました。

コロナによって色んな場所が閉じられていることに、もう慣れたり、知ったような気であまり騒がないようにしているのは、旅の気分に水をさされたことに気付かないふりをしたかったのかもしれませんね~。

だってそれは仕方ないことと言われても、やっぱり悔しいことだから。

行ったことはあるけど何度でも必ず訪れたい場所というものはあって、私にとって平和記念資料館はそういう場所だったのかもしれません。

 

そんなこともあって、旅はなんとなく全体的にノープランで始まりました。

 

新幹線に乗ったら広島にはあっという間に着いて、その近さは、うれしい反面、また‟旅感”にとぼしく、広島駅の様子や使いやすさも、見慣れた都市の中央駅のよくある姿と重なり、まるで家から電車に乗って数駅隣に来たみたいだった。

それで、私はようやく、自分が遠くに行きたかったのだと知った。

チンチン電車に乗って、フェリーに乗って、宮島に行った。

海の上の厳島神社の有名な赤い鳥居は修理工事中で白いシートに覆われていて、「数十年ぶりのことらしいから、これはこれで珍しい光景!」と心を浮き立たせてみようとしたけれど、やっぱり残念な気分がぬぐえず、どこかに赤い色が見えないかと目を凝らしたり、想像の赤を目の前のシートに重ねたりしていた。

まるで正解を追い求め、それに当てはめて目の前の風景を補うみたいに。

 

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厳島神社の神殿に入ったら、水はひいていたのにどこもかしこも濡れている跡があった。神殿の立つ地面だけでなく、柱の途中まで水が届いた線がある。

そうかここはそういう場所なのか。

潮の満ち引きにいつもさらされている場所。半分水中で、半分陸の上の場所。

風は水を含んでおり、私は、息が吸えると思った。

そのことを感じ、自分がそのことを感じていることに気付いてからは、島にいる間中、ずっと気持ちがよかった。

気持ちがいいねと言ったら、本当だね、と答えてくれる友達が一緒にいるのが嬉しかった。

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宮島の赤い鳥居は見えなくて、平和記念資料館はやっていなかった。

でも、これは私の行った宮島と広島だなと思った。

 

知っている風景を確かめに行くようなことだけが旅なのではなく、その時の自分がその場所で何かを感じたり考えたり、いや、それさえも必要な条件なのではなくて、ただ行く、ただそこに居るということが、旅をするということなのかもしれないと思った。

 

コロナとか政府の対応とか報道の仕方、自粛したりすることをやむをえないと呑み込むようなこと全部に対して、言いたいことも怒りもそれからやっぱり絶望に傾くような要素も、私は変わらず持っているけど、それはそれとして、どうにか明るいほうを向いていたいみたいだ。
           

広島に行く前や、行った後には、いくつかのイベントに行った。

 

友達の歌う歌や絵

「こんなときだからこそ」と決行されたダンス公演

「今日の緑と黄色に合いそうやからつけとき」と言って私の服につけてくれたブローチ

建物の「休館」にともなって決定した「無観客展示」の作品展のアーティスト達の各部屋からあふれ出すエネルギー

時間おきにこまめに机の消毒をしに来るスタバの店員

そのつど広げすぎている小物とパソコンを両手に持って宙に浮かせながら交わす「めんどくさいっすよね……」「ね……」という無言のやりとり

「マスクある?」と言って分けてくれた友達

お店屋さんでアルバイトをするよと言ったら遊びに来てくれた人達

スパイスと野菜と工夫が詰まったカレー

家にもみじ饅頭があるということ

友達の友達は友達で、まだ友達でない人もきっと次の友達だと思えること。

 

きっと私だからこんなにもこんなふうにすばらしい人やもの集まってきたのだという自負のともなう喜びと共に、私でなくてもきっとそれらは存在していていつも誰かにやさしくしたり励ましたり、ただそこに居る(ある)ということを続けているのだろうということを同時に思った。

私だからいいのだし、私でなくとももういいのだということは両方すばらしく、それぞれに大切なことだと感じる。

 

ただ自分は、一つ一つの小さいかもしれない色んなことに気付きたいと思う。

そのことがたぶん私がずっとしたいことで、変わらない「しごと」なのだろう。