むりむりちゃん日記

私が孤独なのは私のせいではない

ディアマイフレンド

前の学校で同僚でお友達で悩み派の、マイフレンド先生が、メールをくれて、「ブログ読んでるけど更新してないからもしかして海外にいる?!」と聞いてくれたので、うれしくなって手紙を書くことにしました。

 

一人の人に向けて書いているのだけど、それはどうにも相手にとって重いところがあるようなので(長い手紙あるある)、オープンなところに置いておきます。

 

ディアマイフレンド先生

 

手紙をパソコンで書くなんて人生初なのでちょっとだけ興奮しています。

腰が痛いのです。たぶん寝すぎなんだが、背中が板のようになって動かないのです。

それで、私に合う椅子と机を求めて近所のカフェをさまよっています。(いつも通りの行動とも言う。)

だいたい、私の背丈に合う椅子や机なんて無いのですが、あると思って出かけていくしかありません。あるいは痛みを忘れて没頭する。まあ、それがよさそうです。

 

ヨガの先生はやさしくて、「腰が痛いから行くのをやめたい」と言ったら腰痛用のカリキュラムを考えておくから来なさいと言ってくれました。それで、レッスンの間中、弟子が付きっきりで私の面倒を見てくれるか、先生が逐一私を気にかけながら全体を統括しているので申し訳ないし、スパルタです。

先生は、私の気持ちはおかまいなしに、患者(問題や困難を抱えた人)に対してとても積極的でむしろ燃えていて、私の反応をつぶさに観察してはことあるごとに「どう?」と聞くのですが、腰の芯の痛みは根深く、「治った!」と完治を報告できないのがやっぱりどうしても申し訳なく思います。

でも、患者(困っている人)に対して自分の力を尽くそうと必死になることはすごく自分の姿と重なるから、それが先生がしたいことであるのだと思って、申し訳ないとかはあまり深く考えすぎないようにしています。先生の、すぐに生徒に親身になるところに、私はひとごとでなく親近感を覚えるから、やっぱり私がこの先生を好きなのはこういうわけか、とあらためて確認したりしていてけっこう快感です。

 

治らないことは恐怖と絶望なのですが、これは、いつからか冬になると起きるようになった身体の(絶)不調の2018ver.なのかなと思うことにしています。

去年は右首と肩と耳で、二年前は高熱が出て、その前は、ディアマイフレンドもご存知謎の顔腫れ事件(=歯痛)でした。

(あの時は悲惨な気分だったけど、原因不明で病院たらい回しの上やみくもに撮りに行った頬のCTが、後に先生の生物の授業教材になったから報われた。)


毎回必ず治ってきたのだからと自分をなだめて、去年教えてもらった不思議な力を持つシャーマンみたいな整骨院の先生(年齢不詳・美人)の予約を取りました。

ちなみにヨガの先生も年齢不詳の美人です。弟子もです。気付いたらみんな美人でした。

 

誰が私の書くものを読むのだろうという疑問というか孤独感や、世の人に対する不信は夏から高まっていって、消えることがありませんでした。

特にブログに関して。

 

これは、ほとんど学校にいた時の非充足感や、他の人々との隔絶感(による孤独)と同じ種類のもので、辞めたのに結局同じであったことに絶望しただけでなく、範囲が学校という狭い範囲から社会へと一応広がったのに同じであるということがさらなる絶望を呼び、死にたくなりました。

世の人に、期待していなかったのに期待していたんだなあ。

 

辞める原因ともなった、自分が関係したハラスメント関係(セクハラ・パワハラ)に対してはよりいっそう敏感になり、しかしそうすればするほど世の人々から隔絶していく悪循環。

自分がハラスメント関係や人権に意識を高め、フェミニズムに救いや答えを求めていくことは、自分を守り、当時負った傷を自分で癒していく行為だったのですが、そのことが、人々との距離を遠ざけていくことと同時並行に起きていき辛かった。

だから今でも、人々が何も考えていないことついてはトラウマだし苦手です。

これを書くとほんとうにただの恨み節になって「怨歌」って言われるのでやめるけど。(藤圭子は「怨歌」って言われていたんだってね! この前昭和を振り返るテレビでやってた。そしてめちゃくちゃ美人だった-----!!)

 

理解されないことによる孤独と恨みは友達への依存を高めたし、自分が一人で立っていられないような気になり、長く実家に帰ったりしていた。

新しい友達が欲しくて、なんか頼まれてもいないのにケアしたりして空まわったりした。

自分がしたいことっていうのが何か、わからなかった。

 

このままなのかなとか、もう死んでもいいし、苦しくないやり方なら今死んでもいいとはよく思った。

そのたびに、そう思うことは辛いことだと思って悲しかった。

 

考えていないのは寝る時だけだったからよく寝ていた。

それから料理もした。

外食にお金を使うのがしんどく感じて、家で料理ばかりいていた。今もその傾向は続いている。

料理をするのは最初はしぶしぶだったけど、ネットで料理の動画を見始めてから変わった。

料理動画を見ている時も、寝ている時と同様、自分が何も考えていなくてとても楽であると気付いてからはより積極的に見るようになった。見たら作りたくなっていろんなレシピを検索するようになり、ハマった。

 

料理を中心に(実際は何が中心なのかはわからないけど)すると、いろんなことに派生していった。

たとえば土曜日の朝、早起きして30分歩いた所にある都会の公園のマーケットに野菜を買いに行った。

そこで教えてもらって買った味噌がおいしくて、ただ味噌汁を作るという日のメニューを悲観しなくなったし、検索して出てきたレシピに味噌が使われていれば喜んで実行した。

料理をうまく作れた時の喜びはひとしおだったし、無理のないメニューを選んでいることもあってだいたいうまくいった。うまくいけば写真を撮って母や妹に送ってレシピを共有したし、それに対して彼女たちは(特に母)もちろん手放しで褒めてくれた。

セロリとか、名前のわからない野菜とか、そのまま食べられる小松菜とか、炊飯器で作るカオマンガイとか、生米から作るリゾットとか、これまで存在を知らなくて、存在を知らないから「したい(食べたい・作りたい)」とも思わないものだった。

西宮で暮らしていた時や、さかのぼって実家にいた時には私の生活には無かったような食材や料理が、私の気分を爽やかに変えてくれ、そのことに満足と新鮮な感動をおぼえた。親から離れて自分の好きなものを見つけるというのはこういうことか、と、久しぶりに、あるいはもしかしたら私は今初めて実感しているのかもしれない。

そういえば私は、お菓子を(大量に)作るのが好きな子どもだったし、同じことの繰り返しが苦手なかわりに新しいものが好きなのだった、ということを思い出したような気持ちだった。なんかそういうことがよみがえってきたというような感じで。私の中の死んでいた部分や、他の人の強烈な個性に圧倒(魅了)されて、無しにしていた自分のこと、物理的(時間、エネルギー、量りやハンドミキサー等の道具、バターも大体冷蔵庫に無かった)に無理でやめていたことも含めて。

私は「無し」じゃなかったんだなあ。意志がなかったわけじゃないんだなあ。

 

自分が作った大量のトマトリゾットを食べながら、すごく幸せだと思う。温かくておいしくて、期限の迫った米と牛乳(本当は少し期限切れ)を大量に消費できて、まだ明日も食べられる。

 

そんなときよく母のことについて考える。

母は、私が楽しそうに生きていて嬉しいと思う。そんなことをわざわざ聞いたことはないけど、なんとなく確信している。私が、何ものをも犠牲にして働き、自由になるお金を得て遊びごきげんにしていた時も「よかったね」と思っていたと思うけど、今の私のこともとてもいいと思ってくれているんじゃないかという気がする。私が思うような分野で成功することが母にとっても喜びだろうと勝手に決めていたし、そのくせそのことがうまくいかず努力さえできていなくて寝てばかりいる私に、さぞ心もとなく、不満に思っているだろうと勝手に思っていたから、引っ越してからずっと呼ぶことができなかった。でも、母にとっての幸せは、もしかしたら、私が成功することでさえなく、私が楽しく生きていることなのではないかなと思ったらたぶんそうで、そのことのむずかしさと単純さ、一時の恍惚ではなく継続していくためには時に任せているだけじゃなくて自分で何かしていくこととやっぱりそのしんどさを思うと同時に、それらを凌駕するほど、母がそう思ってくれることはありがたいことだと素直に思えた。

 

先生と会うときはもう料理してないかもしれないけど。


おしまい。(ひとまず)


つづきはもう少し狭い場所で書きますね。

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