みさき先生とお友だちへ
昨日と今日、懐かしい写真を二枚連続して見たので、なんかそういう話を書きます。
一枚目はこれです。
文章も本当にすばらしいから、ぜひ読んでください!!
書き手のみさき先生が、卒業文集に書いた卒業生宛ての文章。
泣きますね。遺書だ。ひとつずつの生徒とのシーンを思い出して書かれた、お互いにお互いを大事にして、一人の人同士の交流をした先生による生徒たちへのメッセージ。
私は昨日引っ越し準備をしてる時に発見して読んで泣き(引っ越しあるある?)、当時と同じように熱く、その思いをみさき先生に伝えて、再掲載してもらいました。
(今また読んで泣く…毎日泣く。)
「目の前の人を大切にすること。自分が生徒にみとめられ、ゆるされていたこと。
忙しくても心をなくしたくない。」
こんなに素晴らしい先生に会ったことないよ。
私は、この一年後に自分のクラスの生徒たちが卒業した時、この文章を思い出して文集に自分のことを書きました。
いや、その前に、それからずっとこのことを思いながら学校に行っていた。
目の前のその人をみつけること。
みさき先生亡き後だったからその孤独は骨身にこたえましたが、この教えを胸に、そのころにはもう友達だった生徒と一緒にがんばった。
自分がみとめられ、誰かをみとめること。
誰かを発見し、誰かによって自分が見出されること。
そのことこそが、生きる中でどうしても求めることな気がする。出会ったからにはその人のことを発見したいと思う。そうして見つけられることの喜びは、生きることにつながる。
でも。
われわれ(みさき先生&わたくし)は「個体識別」しようとしすぎ(できすぎ)っていうとこもあるらしく、それゆえの孤独(一方通行)の苦しみ も味わうことになる。
そういうことを、続いて赴任した先では特に感じた。それがほとんど当時の主な苦しみだった気がする。自分が見出されないこと。
(いや、もう気持ちがこっち(文筆)にあったから、目の前のこととの乖離に苦しんでいたのか。)
二枚目は、今朝別のお友達の日記で見た池の写真。
(この日記はみさき先生と、このお友達に返信する気持ちで書いています。)
赴任先近くのその池のそばを、毎朝死んだ気分で歩いていたこと。
池のまん中に大きな鳥の群れが住んでいて、バードウォッチャーがたくさん来てたけど私はその鳥のにおいがいつもいやだった。
長い一日をどうにか工夫してやり過ごそうと、学校で人に話しかけたり一人でフレックスタイム制を実施したり、果物を食べたりしていたこと。
池は最初から最後まで全然好きじゃなかった。
でも、時々はっとするほど美しい時があって、これはなんなんだろうと思って立ち止まって眺めた。季節のことも天気のこともわからない私にはただ眺めることしかできなかったけど、そのつど、人に言いたいとかちょっとだけ思っていた。
周りは大きな家が多くて、大きな門の前にヴィーナスみたいな変な裸婦像が置いてある家もあってちっとも慣れなかった。
夕方はお金持ちの変な髪型の犬が散歩していた。同僚に私に似ていると言われ、たしかにと思ってどこに行くのか見届けたりした。
池の思い出。
「個体識別」されない(見出されない)切なさについてみさき先生と交わしたLINEが残っていて、そこで私は安冨先生の提唱する馬論(からのホースセラピー)を挙げていた。
(LINEで話すには重すぎるんじゃ……。)
『論語』の「道」からの話で、安冨先生いわく、
馬は全く個体識別しない。誰が乗っても走る。
それに比べ、人間の大脳は発達しすぎてしまって、結果、個体識別できすぎな状態になってしまった。
そのくせ、結局個体識別ができにくいような都市を作っちゃってその矛盾に困ってる(=私)。
なんで人間がそんなに個体識別できるかっていうと、受けた恨みを絶対忘れないため! 何世代も……!
ということなのらしい。
超自分に当てはまりすぎていて笑う。特に最後のところ。
私は怨念で生きているから。
それで、馬か~馬、馬、って思って、馬さわりにいこうかなとか、馬ブーム来たなとか、新しい好きな動物、私=馬(好きなものに自分を重ねる習性あり)って考えたけどそれは全然違って、ついに気付いた。
馬は生徒のほうだったのであーーる!! ジャーン。
私は乗るほう。
そう考えたら、体力(馬力)があってやさしくて、こだわったり執着しすぎなくて個体識別しない(自分に乗るのが誰であってもいい)彼らはたしかに馬だった。
そう思ったらかわいかった。屈託しすぎな私と相対する存在で、なるほどまさにセラピーなのだった。ホースセラピー。私が癒されるほう。
ということで、一時期私は、生徒のことを馬だと思っていた。
それでいくらか楽になった。
また好きな動物が増えたんじゃ。
だからこの池はそのつらい行き帰りと、生徒に乗せてもらっていた日々の思い出。
ユニコーンだよー