お話会が終わりました✿②
次に話してくれたりんりんちゃんは現役の先生で、夏に行ったフィリピン研修の話をしてくれた。
お話会が始まる前に、ノートを見せてもらった。
参加生徒に配布したプリントが貼り付けてあったり、大事な連絡事項が書かれたページの下の方に、りんりんちゃんの字で「洗濯計画」と書いてあった。
「これなあに?」と聞くと、「洗濯の計画だよ。洗濯機無いから。手で洗うの。計画しなきゃ」と言うので、どっひゃー!! となる。
ところどころ、メモのようにその時りんりんちゃんが考えていたことが書いてあるのを見て、私は急にどきりとする。
その人の内面の生々しい部分を覗き見た気がするし、身体的にぐっと近くなるのを感じる。
それは、私自身が日記とか手紙とか、内面に近いものを常に書き続けているからだろうか。いや、この「メモ」は、そういう私の「見られる」前提のものとは違う、もっと生々しく、血とか、体温に近いものだ。
本当は全部読んでみたいけど、「いやーまーメグミさんになら見られてもいいけどなー。しまったな―そんなの書いてあったかー」と言っているので、遠慮して見る。(でも見る!)
日記とか手記とかメモとかにどうしても惹かれてしまう。そういうものを書く人にも。
りんりんちゃんや生徒たちは、修道院の寮にみんなで滞在し、時々、訪問した学校の生徒の家で「ショートステイ」をしてお昼ご飯を食べたりした。
それは、いわゆる「貧困に近い家庭」の暮らしを間近で見るという経験だった。
1ヶ月ほど前にりんりんちゃんと二人でお茶したとき、私は最初にその話を聴いた。りんりんちゃんは、「何かしなくちゃと思うけど、日本に帰って来て、私は自分の生活を変えることもできないし自分にできることがないって思う」というようなことをつぶやいていた。
フィリピンに行っていない私に想像できることは少なく、何を言っていいのかもわからなかった。ただ、りんりんちゃんがそのことについて、どうにもしがたい思いを持っていることが伝わり、そのことが忘れられなかった。それで、もっともっと話を聴きたいと思ったのだった。
お話会では、りんりんちゃんは、「自分たちは物を持ちすぎていると感じた」(「たくさんのものがいらない」という表現をしていた)ということや、「多く持っているのなら、より必要な人に分ければいいのだ」という気付きについて話してくれた。
私は聴きながら、自分には到底行けない場所だという気がした。
お話会が始まる前まではなんとなく自分も行ったような、行けるような気で聴いていたことを思い知らされるような、恥じるような、いや~でも私も行きたい! ってなる……か…なあ?? という問いに、YESでもNOでもないようなあるような気分で聴いた。
ともかく、聴く前と今では、「自分は行けるかどうか」の感覚がまるで違うのだった。(そして、それぞれの人にとって、「大丈夫」なことや「究極に無理」なことが違う。)
さらに、実際にりんりんちゃんが話してくれたことも、私と二人で喫茶店に居た時とはやはり全然違うのだった。それは、より深い話だった。「施し」や「ボランティア活動」、「分けること」に対する日ごろ一人で考えていたことや、そういうことに対するある種の「慣れていないこと」や、「どう考えていいのかわからないこと」など。
それらは全部自分に戻ってきて、自分自身が問いかけられる番だった。
りんりんちゃんが考えながら話してくれたことや葛藤を、私たちはすぐに解決する術を持たない。でも、そういうことじゃなくて、りんりんちゃんが思い出したり、深く考えたことを一緒に分かち合ってくれたことがありがたいと思った。
りんりんちゃんの貴重な経験を聴いて、何かを知ったり、自分もフィリピンに行ったように思うのではなくて(そんなことはとても思えない)、その時に直面したり、ハッとしたり、突きつけられてノートに書いてきたメモの言葉が、それはりんりんちゃんの言葉だけど聴いている私たちの日常につながる言葉なのだと思った。
③につづく(最後です。)