むりむりちゃん日記

私が孤独なのは私のせいではない

違いながら、共に生きるということ(映画『ブタがいた教室』かんそうっぽい文章)

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サンテレビでやっていた『ブタがいた教室』をみた。

なんと10年前の映画で、原作はさらに70年代の大阪の小学校教員によるノンフィクションらしかった。

だからいろいろな錯誤がある感じなのはちょっと置いといて。

 

物語は、新人の担任教師(妻夫木聡)の発案で、6年生のクラスでブタを飼うことに決まり、「ピーちゃん」と名付けて飼育し、苦労や愛着を経験していよいよ離れがたくなったころ、「卒業」という現実を前に、そのブタをどうするか? という話だった。

「命の重さを知る」というねらいで、「みんなでブタを飼おうと思うけど、最後は食べるという約束だよ」という担任の発案で、生徒もそれを了承したうえで始まったことだったけど、「殺すことはできない」という子が何人も現れて、クラスで議論をすることになった。

 

この議論が圧巻、って、ネットには書いてあった。

子役の子どもたちは大人と違う、結末の削られた台本を渡されていて、演技を越えてそれぞれ自由に自分たちの言葉で思ったことを発言していた。

  • 名前まで付けてかわいがってきたのだから、「ピーちゃん」は他のブタとは違う。だから食べられない。
  • 「ピーちゃん」と他のブタを区別するのは差別じゃないのか。
  • 自分たちが引き受けて育ててきたのだから、最後まで引き受けて食肉センターに送りたい。それが責任。
  • 命の長さは誰が決めるの?

たしかに圧巻だった。(泣いた。すぐ泣く。)

最初は、「とても食べられない」とか、「じゃあ他の肉も食べないのか」いう、感情の周りをぐるぐる回るような意見で戦っていて、それも大事ではあったけどどこかみんな傍観者的だった。

「ピーちゃんを食べるってめっちゃ残酷じゃない?」VS「いや、そもそも自分たちが生きているってことは何かを犠牲にしてるってことじゃん」 みたいな。

 

私は、最初から「殺して食べる」って決めて見ていて、それは、「何かを犠牲にして生きている」自分のつじつまを合わせるためには仕方がない、たぶん死ぬほど辛いであろう体験への決断と覚悟を、いつもどおりスッと下したからにすぎなかった。

(自分が生きていることの罪悪を、過酷なことでしか贖えないとすぐに思いがち。その辛さに耐えられるような強さがあるわけではないくせに。偽善を避けているのかな?)

だから、答えは決まっている気分で見ていた。

 

議論は平行線をたどり、

「(後輩に託すか、何らかの方法で)寿命まで生かす」派と、「食肉センターに送る」派の間で攻撃が激化し、溝が深まったりもしていた。

でも、何度も議論を重ねた果てに、ある時、「食肉センターに送る」派の子が、

 

「自分だって本当は殺してしまいたくなんかない。でも、この先、ピーちゃんを置いて卒業しても、頻繁に会いに来られるわけじゃないしピーちゃんを寂しくさせてしまう。その間に、自分たちじゃない誰かが『ピーちゃんを食肉センターに送る』という決断をすることもあるかもしれない。それよりも、愛情を持って育てた自分たちが食肉センターに送ったほうがいいんじゃないか」

 

と、泣きながら話してから、議論の様相は変わっていった。

それぞれの子ども達が、それぞれの結論について、苦しい思いも含めて吐き出していった。

そこには、「賛成」派も、「反対」派の違いも無いように見えた。

あったのは、必死の思いをかけてどうしたらいいかを悩みぬいた人たちの姿だった。

それが自分でもあり、他人でもあるということを共有していた。

たしかに、ピーちゃんを殺すかどうかという決断は、「殺す」にしても「殺さない」にしても、自分の命をかけたような決断で、身を切られるのと同じ、苦しすぎることだと思った。あの場にいた人たちはその思いを共有していた。

私は泣きながら見て、議論ってこういうことかと思った。お互いに苦しい中で悩みぬき、自分の命や尊厳を懸けて議論し尽くした時、相手への尊重が生まれる。

自分の考えの正しさを分からせたり、そもそも相手を説得したりすることとは違うもののような気がする。

その瞬間が訪れるというのはそういうわけか。なんかワッシーが言っていたなあ。

それは、この苦しみの時間を共に経験し、へとへとになってねぎらい合うようなことだって。

そういうものを見たような気がした。

違いながら、共に生きていくっていうことの一端を見たような気がした。

(だから私は、論をもてあそぶディベートのようなものはやっぱり好きじゃないんだな。そして、「当事者」になると、人は必死になる。)

 

映画はいろいろと問題点も目に付いて、(たとえば、「命の大切さを知る経験をさせたい」という大人から子どもへ教える目線が私は好きじゃないし、そのためにブタを使うのは不要な動物実験にも思えたし、「殺すなら『ピーちゃん』と名付けるのはそもそもダメ」というネットの感想はもっともに思えたし、大人と子どもの台本が違うのも子どもを試しているような感じで「実験」的で気持ち悪いなと思った。)すごくいいとは思わなかったけど、やっぱりいろいろ考えた。

 

ちなみに、私は食肉センターに送るんじゃなくて、悩む息子に対して、「俺がブタをきれいにさばいたろか? 自分も子どもの時、ブタを殺す大人は鬼だと思った。でも、殺すことじゃなく、全部を食べ尽くさずに残すことが野蛮なんだ」 と、声を掛ける沖縄料理屋をする父にさばいてほしかった。