むりむりちゃん日記

私が孤独なのは私のせいではない

最新の作品はにんじんケーキ①

土曜日の朝に早起きをして、まだ夢見心地の頭に昨夜寝る前に聴いた曲が流れた。

つまりそれはまだ寝ていないのかと思うような錯覚で夜が続いているような、夜を飛び越えていつかわからない今につながっているような妙な感覚だった。

それは、今でもなく、過去でも未来でもないような歌を歌っているボーカルのせいだと思った。

まったく、そのボーカルは何も言っていないのと同じだった。

明日生きているかどうかもわからないなら今していることも大して大きな意味はないというようなことを言っていた。

それから、こんなすごい星の夜には友達と会って話がしたいと言っていた。

そして、こうした方がいいとわかるような道を選ぶことができずに、時間がかかる方に行ってしまう自分のことなど。

 

私がそのバンドを知ったのは、最近傾倒している作家が毎月Webに連載しているエッセイの最新号で書いていたからだった。文章は抑制がきいていて、いつものようにこの世界に生きているのは絶望的なことだと言っているのに珍しく明るく、まるでうっかり「希望」について語ってしまったようなところがひどく印象的だった。

 

バンドとは十代の頃に出会い、CDを買い集め、フェスやライブに参戦して(それはまさに「参戦」だった)、曲や彼らの存在に助けられてきたこと。

作家が結婚し、出産し、海外に移住したりしている間にバンドは活動を休止し、ボーカルはいくつもの新たなバンドを組んで活動していたこと。

移住先で偶然年若いファンと知り合い、帰国してから一緒に新バンドのライブに行ったこと。

15年ぶりに参戦したライブで、そのボーカルやバンド、曲に支えられていた当時のことや、今までもずっとそうだったことが強烈に身に迫って感じられたこと、まったく自然に一緒に歌っていたこと。

さらに、翌日訪れたマッサージ店で担当してくれた若い女の子もそのバンドが好きで年越しフェスに行くのだというさらなる偶然と、どうかそのフェスが多くの人々が休んでいる年末も肉体労働をしている彼女を癒してくれるようにという願いのような言葉。

 

 

フェスに参戦していた時期が私にもあり、その気候的肉体的過酷さと、それらを天秤にかけても出かけたいと思わせるような衝動を知っていたから、読みながらその得体のしれない恍惚がまざまざとよみがえる心地がした。

また、音楽やあるバンドの存在に支えられた経験という意味でも、慰撫される安堵や繰り返し聴いて命をつないでいた時のことをすぐにいくつも思い出したりしていた。(それらは数え切れず、多くは泣いた後忘れてしまった。)

 

私がその作家を好きになったのはとにかく深く世界に絶望している様子が自分と重なったからだった。

インタビューで彼女は十歳の時から死にたかったと言っていた。

彼女がこの国の人全員が知っているような大きな文学賞を取ったのは二十歳の時で、国中が大騒ぎになった。

私は同世代で、嫉妬してその作品を読むことができなかった。今思えば、たとえ読んでもほとんどわからなかったのではないかと思う。それは、自分の身体に穴を開け傷を付けることでしか、あるいは傷付けても自分の存在に実感を持てない人の話だった(らしい)。

 

私がその作家の作品を初めて読んだのはその約十年後のことだった。当時の自分がどんな心境だったのかは忘れたけど、とにかくそれは「虐待」を含む、母になった女性たちの話だった。「母」になりきれず、またなりきらない女の人たちにひどく共感したし、この国の子育てを取り巻く狂気と母に押し寄せるプレッシャーを、すごい好奇心と深い納得と、そして痛みを感じながら一気に読んだ。

作家自身、その前後の時期のインタビューで自分の妊娠出産について語るなかで、「主にピンクで構成されているような育児にまつわる本やグッズのおそろしくダサいことに絶望した」というようなことを述べていて、ものすごく痛快で面白いと思っていた。

それから、3.11の震災と原発事故以降まるで憑りつかれたように西に逃げようと主張する夫と、政府の発表をあっさり信じて留まることを選びたがる妻の両方(というか全員)の狂気を描いた小説とか、すばらしかった。

 

それから5年が経った。作家の書く真実は痛みを伴っていて日常の中で読むにはしんどく、徐々に遠ざかっていった。あまりに感動した記憶から自分の本棚に持っておきたいと思って買ったのに読み返すには辛く、引っ越しの際に迷って手放してしまったものもあった。それでも時々、主人公が生まれたばかりの子どもを連れて西に逃げるように妻に迫る様子とか、結果的に離婚し家も仕事も失い深夜のスーパーに行く場面を思い出した。総菜は安売りしていて、主人公は椎茸の肉詰めを買おうとする誰かに、椎茸に含まれるセシウムの量を滔々と語っていた。

 

5年ぶりにその作家の小説を手に取ったのは偶然で、普段行かない場所にある図書館に行ったことがきっかけだった。病院の定期健診で訪れた街で、結果を聞きにおそらく一週間後また来るよう言われることがわかっていたから同じビルの中にある図書館で本を借りようと決めて出かけて行ったのだった。

行ってみたのはいいけれど、目当てのミステリー作品は貸し出し中で、私は当てもなくうろうろしていた。ふと思いついてその作家の手放した作品や、不思議と思い出す作品をもう一度読もうかとも思ったものの、それはつまらない気がして新しい作品に手を伸ばした。

作家自身の寡作であること(これもあまり読まなくなった理由の一つだった)や、彼女の震災以降の作品が読みたい私にとって、本選びは難航した。さらに、図書館の本棚の多くを占めているハードカバーにはあらすじが書かれていない。時間切れになり仕方なく図書館を出てフロアーを1階上がった病院の待合で、ほとんど信用できない(し不愉快になる)とわかりながらスマホに作家の名前を入れレビューを検索していたら、本人の書いたエッセイに到達した。ある出版社のサイトで連載しているらしく、無料で読めるのも信じがたく、ありがたかった。ほくほくした気分でお気に入りに登録した後、レビューはさっさと流し見し、「姉妹について書かれた小説」という情報だけを切り取って私は図書館に戻った。

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好きな喫茶店の黒板に「にんじんケーキ」の文字を見て食べたくてたまらなくなった。文字への妄執。

おいしいけど合ってるかわからん……