『ラプソディーとセレナーデ』(鷺沢朱理)感想 【前編】
『ラプソディーとセレナーデ』(鷺沢朱理)感想 【前編】
~修辞法(押韻)、かわいい、を手掛かりに~
八月の終わりに、友人から短歌集が届いた。
手の込んだ作品集で、手に持ったらずっしりと重く、人生が詰まっている気がした。
この夏はなんだかひたすらに悩んでいて全然浮上できなかったし、一人だとご飯を食べなかった。
私はそれを持って実家に帰った。
短歌についてまったくの素人の私に、古典文学をモチーフとした作品がわかる自信はほとんどなかった。
でも、この重みを受けて、自分で読んでみたいと思った。
◇最初の感想は、
・豊かな〈言葉の繰り返し〉と〈押韻〉
・ロマンチック(を好む)なイメージ
「おさへきれずある夜化(け)粧(は)ひて濃姫の屏風と語れり姫は語れり」
「夢に散るつらつら椿つらかりき黄泉も父兄殺し合ふ見て」
「瀲瀲(れんれん)と水にいろ溶き春の木々れんじやくは緋にせきれいは黄に」
個人的な好みの問題なのだが、私は修辞法やとりわけ押韻について懐疑的で、何とはなく恥ずかしさを覚えるため、自分にはうまく使える気がしないという使わず嫌いな面がある。
それが今回、朱理さんの短歌を読んで、その「懐疑」に、よい意味で確信を得たような気がしている。
つまり、
(その状況で)韻が踏めるなら結構余裕じゃーん!
という(穿った)見方のことである。
(じゃーん! とか乱暴だなあ……。語彙が無くて申し訳ないよ。)
歌にするということは、その場面でのクライマックスであるということだと思うのだけど、その感情の高まりやカタルシスを、韻など、狙いすました、あるいは工夫を重ねた表現で彩る余裕があることが、私には気になってたまらない(心底を見抜きたいタイプ)。
それゆえに、作者がその場面を恣意的に切り取っているとはいえ、極限まで高まった瞬間の状態において、「韻…いん…イン……何かないか探そ」みたいな、その冷静さ、我に返る際の客観性と、しかしそこには敢えて無自覚な点が、以前はどうしても看過できなかった。
それは、さらにそこに演出というか演技性のようなものを見出そうとしてしまうためかもしれない。
しかしそれらを見抜いてみた上で、かわいいな~と思ったのですこのたび。
それはほんとにまったく私の知る朱理さんそのものなのでした。
そこから手繰り寄せて考えてみた結果、次の結論にたどり着いた。
◆修辞を含めあらゆる手段を講じることは、(自分の)感情の高まりを再現し、あるいは創作し、それを効果的に魅せる手段の模索で、美に対するすばらしくストイックで忠実なふるまいなのかも。
◆どうしたら美しく見えるか試行錯誤し、その実行に命を懸けている姿に心を打たれる~。
(りゅうちぇるがよぎった~。美の方向性は違うかもしれないけどストイックさという点で重なる。)
自己陶酔(いい意味で)、自己憐憫(いい意味で)、ナルシシズム(いい意味で!!!)がそこここに顔を出し、隠れようともしていない、というのは、とても朱理さんらしいと思う。私も自己愛の強さに自覚があるだけに、こうも見せられると、自分が裸にされたようで恥ずかしくなりながら、追究のつもりで読み進めた。
情感高まった挙げ句、歌に没入していくことと短歌は相性がいいんだなということを、鷺沢短歌を読んで初めて実感する。小説と同じく、短歌においても、作者と作品は分けて語らなければならないのかどうか、素人の私にはわからないのだけど、この脇目もふらずに我が世界に入り込んでいく感じと、私の知る朱理さんのイメージは重なり、歌の中に自分を投影している……という言葉では飽き足らず、歌の中に自分の分身を作っているというか、歌そのものが朱理さんであるというか、それが歌の数だけ増幅しているような、そんな印象を持った。
鷺沢短歌に中てられて、知らぬ間に私も絢爛な表現になった(なってない?)。その感染力がある気がする……。
自己陶酔や没入はある種の恍惚をもたらし、傷ついた自分を慰撫する。作歌や生きることへの苦しみの中で、朱理さんが作歌に没入しながら自身を確認し、あるいは忘れ、理想を追求する中で新たな世界を発見し、自らを作り上げていく過程がここに表れているように思う。
◇ちょっと休憩☕
~高校古典授業における和歌のリアル~
この話をしても誰が喜ぶのかわからないけどよく書いてるしまあいいかということにして恥をさらすと、私は全然古典がわからなくて、古典作品に登場する和歌など、めっぽう苦手だった。
教員であった時、一応、『万葉集』など、高校で教えなければいけないとなった時はいつも指導書ガン見の上で授業に臨み、とりあえずその時間にはなるべく和歌に差し掛からないように授業していた。
和歌は、言うこと(修辞法)、やること(原文と現代語訳を黒板に書く)色々多くて、そんなマルチタスクをこなしながらさらに誰を指名して何を答えてもらったらいいのかは皆目見当がつかずただ混乱の極みだったから、願わくば授業開始直後の落ち着いた心理(私が)で「いざ!」と行いたかったし、もっと願わくばやらないまま通り過ぎたかった。無理だけど。
だから、「和歌は感情高まった時思いあまって作るのらしいよ~(知らんけど)」と説明しつつ、平気でその高まりをぶった切り、好きなタイミングで解説していた。
修辞法は、「枕詞」、「序詞」、「縁語」、「掛詞」、「本歌取り」等々色々あってとにかくアップアップしていた。だって全然実感ないんだもん。
特に、縁語は完全雰囲気任せ だったから、ペアが二、三種類登場する超絶技巧を駆使した歌が出てきたらすぐ緊張。とりあえず部屋に存在するチョークを全色使いしてなんやかんや四角く囲い、あれやこれや線をつなげて図示する工夫、マイ技巧。
私にできることはこれだけです~わからーんっていつも思っていた。
私がわからないのに生徒が縁語を発見できるはずもないので、完全教授型(私→生徒。……いや、指導書→私→生徒です!)で、たとえ私が間違えて板書しても誰も発見できないという地獄の空間の誕生。
逆説的ですが私がいたのは立派な進学校で、つまりみんなテストのためにしっかり、かつ無駄なく暗記したいから、
(悲しいかな、修辞法なんて生徒からしたら「テストで出ることが容易に予測されるもの」でしかないのじゃ……)
間違ったことを板書するわけにはいかないという私一人にのみのしかる謎プレッシャー。
それもあって、教員時代は純粋に和歌を楽しむことは全くできなかったな。
◇マイ短歌経験を変えた!
ところがこのたび朱理さんの短歌を読んで、マイ短歌経験がすっかり変わった。
読みながら、掛詞はもちろん、これは縁語かな? とか思ったり思わなかったり、とても自由な中で気付き、味わうことがあり、すごく楽しかった。和歌の味わい方ってこれか~と思ったしだい。
つまり、知ってる人が作った歌を、ここ凝って作ったんじゃない? とか、工夫~~すごい~ごいす~wwwって思いながら、わかったりわからなかったりしつつ、楽しみながら読むこと。
読みながら、作者の人生や人物像と重なったり、はたまたその創作性を堪能したりしながら読むこと。
それは、決してその短歌に愛着を持っていない誰かに、周辺事情、修辞法、現代語訳、感情の高まりなど、知識としてまるっと教授されるようなものではないのだということ。(ごめんね高校生。)
(ただし、読み味わうためにはある程度の基礎知識は必要だから、何らかの方法でその手順を踏むのは必要。)
しかしそれにつけても、
自分の知っている人や友達が詠む歌の何と興味深く、どのようにしても知りたいと願うことよ。
当時の人たちの和歌の享受のしかたはまさにこんなふうだったのではないかと、何の調査もしていないのに勝手に確信し、堂々と書いてみた。
◇絵画的、感触的っていう魅力にも気づいた~
「絵画的」と言われたら、まさにそうだなと思った作品。
「かづらかづら絡む鬘(かつら)をさがしもとめ雨降る羅生門に昇りぬ」
「濃き髪ぞ悦(よろこ)ばしきや温し温し毟(むし)りては絡めからめては抜き」
この語の連なっていく感じは、長い髪を示しているようでもあるし、その髪に指を絡めている時のその指の触感というか、それを絵画→和歌に写したという印象。語感やリズムに乗ってゆけるし、その独特の恍惚感を共に味わっているような錯覚にも陥る。
第一、これまでの読書経験の中で『羅生門』の老婆の欲する鬘に、長い髪である感じを、感触としてまったく持っていなかったので、朱理さんの手にかかるとこんな感じか~という体験は、おもしろすぎました。
◇「かわいい」ひとです~
誤解を恐れずに言えば、自己愛の強さというのは、一般的に、現実世界では浮き立ってしまうところがあるというか自他ともに持て余すようなものだけど、短歌になり、また短歌集としてまとまった作品の数々を目の前に広げて見る段になると、朱理さんの多彩な面が様々に切り取られていてすごくいいなー、魅力的な人だなー、総じて、かわいいひとだな~~となったわけです。
「海の芸妓きみ案内せよシェルピンク、シュリンプピンクまばゆきピアス」
「パウダーブルー、光の粉を溶きし水面しばし見上げん海底の途に」
「パールサラダの桃いろ黄いろ碧いろ胸元かざり往き交へるひと」
この色彩センス。ネイル? ねえこれ、ネイルの色でしょ? 💅
これは、「海底洛中洛外図屏風」からの抜粋ですが(タイトルもかわいい。世界観かわいい。井上涼の作品『忍者と県立ギョカイ女子高校』に通じる。)、その中にはこんな歌もある。
「玉手箱製造工場ラインにてパートの沙魚(はぜ)らリボンの藻巻く」
かわいい~。リボン出てきた🎀 女子校を出た後のギョカイたちのことみたいだ~。
他にも、「シュピしゆパと」とか「プにぷニョ」とか「ハクハクと」とか、実験的な表現も散見される。これらもかわゆし~。
すぐれた作品は、読んだ後、読者に自分のことを語りたくさせるものだと思う。
我が身を振り返ったり、人生のある場面をふいに思い出させたりするような。(次回はこの辺りにもう少し踏み込んでみたいと思います~)
朱理さんの短歌は、入念な調査と豊富な知識が相互に担保し合い歌に厚みを持たせていて、書かれた言葉の後ろや周りに幽霊みたいにたくさんの景色や物語を感じる。考え、検討し尽くされていると思う。
信頼に足る書き手であり、詠み手だと感じる。
(続きま~す)