むりむりちゃん日記

私が孤独なのは私のせいではない

菜の花の苦み、トマトの甘さ②

(「最新の作品はにんじんケーキ①」の続き。別に読んでなくても大丈夫です。)

 

借りてきた小説はすぐに読む気になれなかった。私にわからないことや興味の持てないことばかりが書いてあったらと思うと表紙を開くことができなかったし、長い間、これといった小説を読むことができないでいたから自信もなかった。

Webにあるエッセイを、スマホを触るついでに読んでみた。(そちらの方がその頃の私には物理的に圧倒的にアクセスしやすかった。)

 

それはもうただひたすら暗かった! いっそ笑えるぐらいに。

エッセイに付けられたタイトルには毎回フランス語の単語が付けられており、現地の料理の名前や、お酒、よく使うらしいフレーズ、出てくる地名も野菜の名前でさえも洒落ていて、手の届かない世界を見せられているようなのに、それらは単に作家の生活を取り巻く単語であるだけのようだった。

パリでよくあるのだという飛び降り自殺のことや「あなたのフランス語は何を言っているのかよくわからない」とはっきり言われること、自分や他人の人種を意識することを迫られるような日常やあからさまに向けられる差別的感情、施しをねだるホームレスや通りすがりに浴びせられる「売春婦め!」という罵声……。それらがテロに遭う恐怖や不安を常にベースとした中であること。

そういった外因的な要因だけでなく作家の本来的な絶望感や孤独、自分は誰にも理解されていないと感じること、傷付けられたくないし誰も傷つけたくないと思うことなどが毎回書いてあった。

 

(細かい世話が必要な年齢の子どもがいるとは全然思えないほどの子どもの登場しないぶりや、その反面、お酒や煙草、夜の外出、永久的な悩みの中に生きていることなど、彼女が当たり前に「個」の自分として存在しているという「普通」に触れて安堵した。あっぱれだな~と思い、あっぱれって思う私も完全に偏見に侵されているのだけどともかく痛快だった。)

 

その時の私は今も続く、おそらくこの先定期的におちいる全世界全人類不信の真最中で自分を含む世の人全員が信じられず、書くことはおろか生命の維持に関しても結果的に生きているというだけの活動しかしていなかった。朝起きたら誰かを憎み、そういう自分が嫌で恨みを言語化することを恐れて目をつむった。次の日が来るのが嫌で夜がずっと続けばいいと望み、外が明るくなってくるとがっかりした。

このことは「鬱」と名付けようとすればそうなるようであり、「とて病」(何をしようとしても「どうせ~したとて……(仕方ない)」と思うこと)や、「絶望」と診断すればそのようでもあった。名付けたところでこれ以上どうにかする術はなく、既存の病名にほんの少しでも慰められるという段階も終わっていた。「とて病」も「絶望」も新しくも面白くもなく、そもそも診断を下すこと自体に飽きていた。

 

私が考えているほど人々は考えておらず、私が考えていることを考えている人もいないのだった。

 

世界(この国)への不信は期待へと転覆し猛スピードで狭い範囲に向かい、わずかな友人や家族への過度な心理的依存を経てついに嫌悪に至ったところでいよいよ自分の性格の悪さに呆れた。

誰とも個人的関係を結ばないでいようと決めた一秒後に、好きな人の元に救助に駆けつけている。

私でなくてもいいのだと経典のように唱えながら必死で。必死なのは救助に向かうことではなく、自分でなければいけないのだと思わないようにすることに対してなのだと思う。今その人のそばに誰かが居たらいいと思って、それが自分の役割なのだと思うにとどめる。結果的に、他に誰もいなくて行ってよかったと思うのと同時にすぐに、私が駆けつけたのであって私だからよかったのだという思いがせきを切ったようにあふれ出して自分では止めようがない。波に呑み込まれ気付いたらそのまま一人で相手と個人的関係を結んでる。毎秒失恋だし、常にセルフファックだ。

 

作家の書くエッセイは、そのような私に沿っていて、たいていのことに対して感じるストレスがまるで生じなかった。生きている場所も、家族や友人も、生活も、具体的なことはまるで違うのに、私は一人ではないのかもしれないと思わせた。書いていることの中にはわからないこともあった。それでもいいのだと思った。

Webの文章は毎回ほとんど救いなく終わった。悩みや苦しみに光はなかった。そのことに私は馴染みをおぼえたし、そうであるはずだとも、そうであってくれてよかったとも思った。読んでも読んでも翳が深いままであることに安堵し、それを確かめるように次々に読んだ。

同時に、借りてきた小説をむさぼるように読み、足りなくなって本屋に行ったら別の好きな女性作家の小説に彼女が「解説」を書いていることを発見し、運命と名付けてすぐに買った。

 

それらはすべてすばらしかった。作者は「解説」で、この国で生きることによって(よくも悪くも)既存の倫理観や「~べき」の抑圧によるふるまいを身に付け(させられ)ることを、「去勢」と表現していた。

そしてたしかに彼女の作品では、「去勢」を受けないで育った人々(特殊な環境下で育つなど、たまに居る)への憧憬と共に、それぞれの物事に対し自分はどう感じ、どうしたいと思うのか、苦しみながら考え生きる主人公の姿が描かれていた。

生きて行けるかどうかはわからないけど、私は生きていくならその作品があってほしいと思った。

 

それで、私はどうしても作家が好きなそのバンドが誰なのか知りたくなった。

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しゃっきしゃきでした。