むりむりちゃん日記

私が孤独なのは私のせいではない

マシな大人になるためにできること

「私たちは『買われた』展」に行った。

 

思ったことはたくさんあったけど、私は一人で行ったことをすごく後悔した。

誰か友達を誘って一緒に行けばよかった。

この現実について、一人でも多くの人が知らなければいけないと思ったから。

女の子たちが安全に生きていくことができる社会にするために、私も何かしなければいけないと思った。

その一つとして、この文章を書きます。

見たことや考えたこと、聴いた話を少しでも広めて、一緒に自分の問題として考えたいし、できることをしたい。

少しでもマシな大人になりたい。

 

「私たちは『買われた』展」とは・・・

twitter.com

貧困や虐待などによって住む場所や居場所、お金に困り、または騙されて売春に足を踏み入れた女の子たちの「買われた」現実や伝えたいことを表す写真、体験記や日記、手記、「大人に伝えたいこと」をテーマにしたメッセージや作品の展示。

 

神戸では、9月20日(木)、21日(金)の二日間開催された。

初日に、Colabo代表の仁藤夢乃さんの講演があった。

Colaboは、帰る場所を失い、街で危険にさらされている少女をレスキューしている民間の団体。

講演や展示は、ガールズ・シェルター(女の子たちの居場所)の活動を理解し、支援する人を増やすことを目的の一つとして開かれていた。

 

仁藤さんの講演は、衝撃的なこともあったし、うなずくこともたくさんあった。

信じられないことに、給食費や修学旅行の費用が足りないことと、売春が直結していて、隣り合わせにあったりした。

そのことを、教育現場も、社会も全然掬えていないし、私も含めて人々の認識が現実に全然追いついていなかった。その乖離が衝撃的だった。

また、私が高校で勤めていた時に感じたことともすごく重なった。

例えば、

・子どもにSOSを出させない教育の在り方への疑問

(生徒に「嫌」とか「できない」を言わせない。勉強にかぎらず、校則順守、集団行動の強制。その場から「逃げる」ことが許されない。)

→教師は生徒にSOS出されてもどうしたらいいかわからないから、生徒に「大丈夫」って言わせる「大丈夫?」を聞くんだよね。

→教師の「挫折」経験不足、教師の出すSOSの受け皿不足……っていうか皆無。というのを私も実感する日々だった。

・自助努力を求められる社会(「自己責任論」の根強さ)での生きづらさ

・子どもが駆け込める場所の少なさ

・子どもにレッテルを貼り、「管理」しようとする意識が根深い。

 

仁藤さんの話の中でもっとも心に残ったのは「選べる」ことの大切さについてだった。

「夜の街で助けてくれる場所や行き場が、Colaboしか無い」(あとは、管理や矯正的な側面のある公的施設や警察)のではなく、Colaboか、他にもいくつもの選択肢がある中から女の子が選べることが大事と言っていた。

聴いていて、選ぶことには主体と意志が伴うことや、見失わされがちな自分への価値を感じる行為だとわかった。

というかそれ以前に、「選ぶことができること」は、生きていくうえで当然の権利のはずなんだよな。

「それしかない」というのはみじめな気持ちになるし、自分が大切にされているようには到底思えない。それでは自分を大切にする気持ちも生まれないし、保てない。

(仁藤さんいわく、女の子たちをレスキューする団体はわずかで、今日はどの団体の所に行こうか……などと、女の子たちは選べない。一方で、売春スカウト達は山のようにいて、女の子たちはその中から「選べる」状態にさせられるらしい。それが、女の子たちが売春の方に取られる原因でもあると言っていた。でも、その「選べる」は主体的なものではなくて、あまりにも選択肢がなさすぎる中から選ばされている状態。最悪の中から選ぶということに過ぎない。それでも、「売春が発生するのは『売る側』がいるから」、などと「自己責任」を追及される。)

 

時にユーモアを交えながら、にこやかに、でも限られた時間内に伝えたいことが山のようにあるということを感じさせる講演だった。

とにかく、「少しでもいい大人」、「マシな大人」になれるように、できることをしてください、という言葉がすごく印象的だった。

できることは、一緒に声をあげたり、団体に寄付をしたり、物品や食材の寄付をしたり、たくさんあると言っていた。

Colaboの 詳しい情報はこちらです。

→ https://colabo-official.net/

 

この国の大人っていうのだけでもう最悪の罪だよなと思う。自分のこと。

女の子たちの心と体の傷付く取り返しのつかないことが起きていて、過去に戻ってその被害を無かったことにすることはもうできない。

こんなふうなことにしてしまったことが最悪で、自分もその一人としてクソだなと思う。

だけど、それでもまだマシになることができるのかな。

私も加害者であることを、何とかできる方法があるのかな。

このまま何もしないなんてクズのままだよなと思った。

 

私は、2年前の「ETV特集」(NHK)「私たちは『買われた』展」を観て初めて知り、それからずっとこのことが頭から離れなかった。

 

売春をする女の子たちは、彼女たちではなく、明らかに大人が悪かった。

周りの関係者とか、女の子たちを騙してスカウトしたり、買ったりする大人だけでなく、このような状況になっていること、全然知らないこと、解決するために何もしていないことのすべて、大人の責任で問題だと思った。もちろん私も悪かった。

番組では、展示会を見た人の様子や感想も映っていた。

ある女の人は、「申し訳ない」と言って泣いていた。

その姿を見ながら、私もそれしかないっていう気がした。それ以外の言葉が見つからなかった。

しかし一方で、例えば、「買われた」展という名前について、売った」くせに被害を訴えるような名前はどうなんだ」とかいう誹謗中傷があったのだという。

それは、少女と買った側が対等の関係で、少女も買う側と同じように様々な選択肢の中から選択ができるその一つとして、売春を「選び」、おこなっているという認識がいつまでも抜けない者による、買う側(そして放置している大人全員)にとって都合の良いファンタジーを乱暴に振りかざした暴力だと思う。

問題を女の子たちのせいにしておけば、私たちは何もしなくていい。

ただ彼女たちを自分から切り離して、責めていればいいだけだ。

 

でも、番組をみてショックを受けたくせに、私だってそれから何をしたわけでもないまま(友達にその時に録画したDVDを貸したぐらい)、2年経った。

 

講演会の翌日、パネル展を見に行った。

講演会の聴衆は、中高年の世代の人々が多かったように見えたけど、金曜夜の閉館間際の時間帯は、私と同じ世代のスーツ姿の男性や女性が来ていて、時間をかけて展示を見ていた。

私は、おおむねETV特集で紹介された内容なのだろうと思うことにして、落ち着いて見ようとしたけど、やはり平常心ではいられなかった。

番組で紹介されたエピソードは同じであっても、文字になって淡々と事実が述べられていくのを見ると、ショックを受けた。

 

読みながら、何度も、いろんな時点で、「この時に安全で自由の保障された保護があれば」とか、「なんで無いんだろう」とか、思った。

 

つまり、全く選択肢がなかった。

選べないし、知識も気力も無かった。

 

自分の姿も重なった。

重ねたのは、自分が職場でハラスメントを受けていた時のことだった。

自分の精神を殺して相手の言うことを聞き、肉体的(経済的)に生き延びるか、あるいは全部死ぬか。

本当にそれしかないんだよね。それしかない瞬間が、一人の私の身に急に起きる。

なぜか一人だったし、助けてくれる人や機関はなかった。

 

また、いくつかの体験を続けて読んでいくうちに、原爆や戦争体験者、アウシュビッツに入れられた人たち、ハンセン病の人たちの存在や、特に体験記とも重なった。

(誰かを誰かに似ているということは、誰に対してもその個人の経験を尊重しないようなことになり、してはいけないことだとは思いつつも、すみません。)

つまりこれは、戦争の被害や病気への偏見のように、人々の愚かな振る舞い(無関心も含む)による被害で、社会全体でこのようなことが無いように目指されるべきことであるはずなのだと思った。

でも、原爆やアウシュビッツの被害については、人々が関心を寄せ、反省し、その場所を訪れたりしてもう二度と繰り返さないことを誓って大事な場所として認識されているのに(それに対して異論はないです)、この「私たちは『買われた』展」はそういうふうに扱われたりしない。

さっきも書いたように、誹謗中傷さえ受ける。

それはなぜかというと、日本人の性に対する認知のゆがみ、性教育の不足やズレ、人権意識の欠如、女性差別の根強さによるものだと思う。

こんなことを書いている私でさえも、友達を誘って行かなかった。

それは、どこかに、特別な分野の特殊な問題という意識があったからだと思う。

つまり、「女の子たちの問題」であり、当事者とそれに関心がある人だけに押し付けるような、問題から逃げるような意識。

 

でも、この展示会が大きな場所で行えない現状も、偏見や好奇の視線から守り、危害が加えられないように十分な準備をしなければならないことも、社会やわれわれの意識の欠如の問題でしかない。

 

展示会のポスターに書かれていた女の子たちの言葉を引用する。

「私が売春していたのは、小6の11月26日から始まり、2年間です。」

「『こいつらに捕まったのが私でよかった』と思うようにしていた。」

「‟男性”は私を道具としてしか見なかった」

「『お金ないなら、稼いできてよ』友達がいなくなるのが怖かった私は従った。」

「私から勉強がなくなったら、何も残らないと思った。」

「JKビジネスがきっかけで お姉ちゃんに誘われて。」

「体を差し出す代わりにおにぎり一つもらった。」

 

最後の子は、お金さえもらっていなかった。おにぎり一つと、その日寝る場所だけ。

彼女たちは私だし、私だったかもしれないし、彼女たちを追い詰めたのは私でもあると思う。

 

しんどいことを書いたけど、大事なことだと思っている。

少しでもマシな大人になるために。

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