本を持って友達に会いに行く旅🐈その①
昨日妹と電話で話していて、妹に私についてわりとひどい言いようをされたから(忘れたけど)、「それ言われて私が傷付くと思わんのー?」とへらへらしながら言ったら、「だって今あなた元気だから何言われても平気でしょ?」と返ってきて驚いた。
「えーそんなことわかるの?」と言ったら、「わかるよそのぐらい。ダメなときはダメってわかるからそんなこと言わないし」と言われてへえー! となった。
へえーとなったのは二つ理由があって、一つは、「私が元気である」と妹が思っている(知っている)ということと、もう一つは、妹が私の調子をよく見ているということだった。ほえーーーっ。
たしかに、私は今けっこう元気なのだった。(変だな。)
GWに本を持って友達に会いに行き、たくさんお話をして、それぞれのお話がすべて深くて初めて聴くようなことばかりで、まさに黄金週間だったなあ……とぽーっとして家に帰ってきたら、しばらく会っていなかった友達がポストに出版のお祝いのプレゼントを届けてくれていた。
(仕事や結婚や出産や、互いの状況の相違によって失った)「友達をとりもどす」というのはこういうことなのかもしれないと思ってきている。
なかには私のほうが手放してしまった縁なのにもう一度つなごうとしてもらったりすることもあってありがたく、すみません。ありがとうすみません、すみません……。
私がセクハラ・パワハラの話を書いていることもあって、会いに行った人々の中には自分の受けたハラスメントの話をしてくれる人もいた。
私みたいに出勤を拒否した人も、耐え続けていれば食うに困らずそれなりに安定的な仕事やポジションが得られたはずの人もいた。
その人は、ついに日本中を転職先の候補とするに至り、着々と応募していた。
それを見て私はまた、どこにでもいける自由を感じた。
あるいは、おしりを触られた瞬間相手を殴って会社を辞めた人もいて、
「何年も前の話で、今とは時代も違ったけどね」と笑って言うその人を、
私はまるで英雄を見るような気持ちで見つめた。
その会社も時代も、今だってクソすぎるけど、そんなことは関係なくその人自身がカッコよすぎた。そして本当に、「そんなことは関係ない」のだろうと思った。状況がクソであろうと平穏であろうと、行動する人はいつだって変わら(変われ)なくてその人のままであるのだと思う。そうでしかいられないっていうか。
そのことが、私はずっとつらかった。そんなのは自分か、周りのわずかな友達だけだと思っていたから。
でも、「自分だけじゃない」ということに幻でない手ごたえを感じて、私はしみじみとうれしかった。
私の話を聴いて、「かわいそうやったなあー」と言ってくれる人もいた。
「我慢すべきである」とか「無責任だ」とか、「働くというのは理不尽なことにも従うことだ」と言う人は一人もいなくて、そのことに私は慰められた。
まるで慰撫の旅を続けているような感じだ。
勤めていた学校の校長も教頭も、傍観者を含むその他の人々からも何もなかったけど(優しくしてくれた同僚=友達はいました❤)、
昔の友達やあたらしい友達が、まるでその代わりをするかのように私を慰めてくれている。すごく自分に都合のよいとらえ方だけど、不思議と私にはそうであるとしか思えない流れ方をしているのだった。
「快晴」に改元して本を出したら、どんどんあたらしく変わっていっている。
へらへらして、大好きな不動産屋さんの話をしながらわけもなく「おもしろいね」と繰り返す私に、妹は呆れ気味に「で、なんで電話してるんだっけ」と言った。