『ラプソディーとセレナーデ』(鷺沢朱理)感想【後編】~パワハラを歌に詠むこと~
『ラプソディーとセレナーデ』(鷺沢朱理)感想 【後編】
~パワハラを歌に詠むこと~
やや乱暴なくくり方だけど、今回は「現代」をモチーフとした作品について取り上げま
す。
「現代」というか、現在?
作品に使われている言葉はやはり古語ですが、こちらの方により親しみをおぼえる読者もいると思う!(私。)
「ハートとハート誰も揃はず職場にて〈神経衰弱〉しつつ日を終ふ」
「〈SAD〉略も鬱めく社会不安障害われの接客こはばる」
「クッキーと水の食事に使はざる箸を置くなどどうかしてゐる」
「水に書く言葉」より
「PTSDフラッシュバックに怯えつつ受ける電話の五重敬語は」
「クレームは耳に残りし水のやう誰か取つてと喚けずにゐる」
「祖父に代はり手に持つ鍬の重かれどこのリハビリは効くよと祖母は」
「慈雨浴びて」より
(事態は深刻で、この他に、より切迫している歌もあり生々しく心を打つのだが、せっかくだから多くの人に手に取ってもらいたいと思い、各章(と言っていいのかな?)三首ずつと決めて選びました。)
〈SAD〉や「鬱」、「PTSD」など、どきりとする言葉が続々登場する。
わずか三十一字の中でこれらの言葉は強烈な力を放ち、歌全体の印象に大きな影響を与えながら読者に重く迫る。
禍々しいのに、とても現実性があると思う。
「どきり」とするのは、私にとっても他人事ではないからである。
朱理さんと私の交流が復活したのはわずか数カ月前で、朱理さんから「近々歌集を上梓するから謹呈したい」とメールをもらったことがきっかけだった。
お互いにすごく簡単な近況を報告した際、それぞれ「パワハラ」に遭ったことがわかった。
ただ、これは誰が相手であっても言えることなのだが、正直なところ、私は詳しく話すことが面倒だった。
伝えるにはとんでもなく長いストーリーを話さなければいけないし、それは「その当時」でなければ意味がない気がした。
もっと言えば、話したことと引き換えに「その当時」、何かの行動が起こされなければまったく価値がなかった。
だから、今となっては私にとってその経験は、いずれ何らかの表現で復讐するつもりでいるというただそれだけのことだった。
そんな私にとって、誰かの、それも友人の「パワハラ」の表象はとても興味があった。
いや、そもそも、それ詠むんだ! と思った。
ページをめくり、真剣に読んだ。おもしろかった。
・「ハートとハート」が「揃」わない「職場」の「神経衰弱」とかうますぎて、人の作品なのにほくそ笑んだよ。
・〈SAD〉の表す「鬱め」いた英単語の意味とかも、
わかる! それ思いついちゃうしその後延々一人で渦巻くよね~、
という状況が頭の中で再現されたし、「どうかしてゐる」自分の行動の切り取りも、具体的で、哀しかった。
・「五重敬語」って何! って今会ったら一番に聞きたいし、待って待ってそれユーモアか幻聴かわからない怖いと思った。
・「誰か取つて」と「喚く」くことと、できないで「ゐる」ことはすべてが親和性があって痛々しく切なかった。
・「祖父」の存在は他の章で介護と看取りの経験が描かれており、もはや他人じゃなく感じているし、「祖母」の励ましは、そのいかにも「ばあちゃん」世代っぽい温かいユーモアに包まれていて泣かせる。
といったふうに、実にわが身に重ねて読んだ。
それを促すようなユーモアと哀しみに満ちていた。これは、作者の手腕と、短歌にすることによってある一定の距離感が生まれたことによるものだと思う。
私が自分の受けたパワハラを訴えなかったのは、味方にもなってくれなかった傍観者にゴシップに興じられるのが嫌だったからだ。
作品にしていないのも同じで、弱さをさらけ出すことには抵抗があった。
私は悪を糾弾したいのに、不要に責任を追及されたり無駄に傷付いたりするのは避けたかった。
つまり、「負けた」ことになるのが嫌だった。
自分が惨めでない方法で、(あまり信頼できるかどうかわからないけど)読者に対して、正しく発信したかった。
私はその方法が今もわからずに、手をこまねいている。こまっているのかもしれない。
ぜひ、本書を手に取って、歌の連なりを読み味わってほしいと思う。
時は流れ、歌も流れる。
進んだり止まったり振り返ったりまた戻ったりしながら、次に行くのだと思う。
私にはまだそれしか言えないけど、この歌集に励まされたことは多い。
本出したくなってきた!!
8月に行ったイベントで作ったプラカード。「行動」が燃えてるw