むりむりちゃんは行く(俳句)!!
サラリーマン川柳がキライで発表が不快なので、前回のミドル短歌に続き、
自分で「むりむりちゃんは行く(俳句!)」を作った。
~むりむりちゃんは行く(俳句!)~
・壁に掛けた友達の子どもの絵を一定時間眺めることにしている
・「〇〇ニナル覚悟が足りなかった」とか常ナル傍観者に言われましても
・「先生元気になったんですね」とスーパーで後ろから撃ち殺される
・じっと見られるのでじっと見るまたじっと見られる あネコか🐈
川柳っぽくなっちゃったよ~💦
ダサいよー。
この住宅地感閉塞感……👣
しかし歌だと特に説明したくないことも表現できるんじゃない?
フィクションだしね。
想像は読者まかせよ。
Cocco好きです。『強く儚いものたち』📻~♪
オランダからのアップルパイ好きです~🍏
急に短歌を作り出す
週末に隣の街のフリーマーケットで歌集を買った。
古本じゃないのに古本屋さんが売っていた。
休憩したあとに2度目に寄ったら、店の前に出してあって手にとってしまった。
動物が人みたいな絵が散りばめられていた。
短歌には、「トリガー」とか「ツイート」とか「リプ」とか出てくる。
「いける」とか「本当の自分」とかいう言葉もある。
それを自虐するような……歌風?
今風だ。完全口語の。
パッと見又吉くんの自由律俳句の系統で、でも又吉くんなわけないんだからその路線は厳しいかも、とか勝手に思って読んだ。
「最近デビューした人の中で一押しです」と彫りの深い顔の店主が言う。
なんか共感しちゃうんですよね。スッと読めるっていうか、入ってくる。関西出身の人なんですよ。
と言っている。
なんとなく見えてきた気がしたけど、はっきりしなくて迷う。
帯で女性の有名な歌人や、若手シンガーソングライターが推薦文を寄せている。
持って帰って見たいなと思って買った。一緒に鳥獣戯画の描き方の本も買う。
「奈良にも遊びに来てください」と彫りの深い店主に見送られる。
隣の古本屋で、犬養孝の『万葉十二カ月』を買った。表紙の奈良王朝時代の貴族の女性の絵がきれいだった。
帰ってベランダでビールを飲みながら短歌集を読んだ。
ぞわぞわっとした。
なんでだろうなんか……。
まず、私も書けるようなことだなと思ってしまってすぐに、でも私は書いてないんだからそれを言ってもだーめよ、と自分を怒っておく。
『万葉十二カ月』や鳥獣戯画の描き方の本を漫遊してちょっと描いてみて、
直後にまた短歌に戻ってきた。
なんなのじゃ? この中毒感? なんだか見えない糸に引っ張られているような感じ?
と思いながら、
後ろのプロフィールを見ると作者私の二個上、男性。
ふえーふおー。なるほど。わかった。わかってきた。そういうことね。
男性であるということも、年齢も、見事に私のプロファイル診断に合致する。
これは……
ミドル・リーダー*1による短歌集だーー!!!
嫌なのは、短歌に漂うドヤ感だった。
ドヤ ( ̄‥ ̄)*2
なんか、うまいこと言ったった感というか。
言った後、シンと黙ってこっち見てくる。小鼻膨らませてる、みたいな。*3
あ~~本物を引用したい! でもあからさまにディスりたくはない。
どうしたら伝わるか……。
せや!(どや! に対抗して。)
マネして作ってみよう!(すぐマネする。)
~ にせもの短歌 by むりむりちゃん ~
- セオリーから外れたがる生徒を叱りわが青春の終わるを悟る
- 人事はコネやからねとネコなで声で言うネコを追いかけながら
- 君のテストの問題には遊びが足りないもっとずっとあれほらなんていうか
- 髪切った人には必ず声をかけることにしてるそう決めている
- 神経と血管はニコイチと言ってくる主治医に黙ってうなずく
- 映画『沈黙』? あー遠藤周作の? サイレンスのことね。観れてないけど。
- 普段不機嫌な同僚に昨日頼まれ分厚めの画集抱えていそいそと出勤す
- 気に入るとくりかえし買う癖来世でも自分を見つけるためのフラグ
- 休日補習は自分の教室でやるのがセオリーでありポリシーでしょ
- スタバの冷めたコーヒーは煮詰めた味噌汁の味がした(私か?)
- 若松英輔買わずに穂村弘買わずに店長一押しの歌人のを買う(私か!)
難しいなー楽しいなー!わくわく。。
ほとんどミドル・リーダー先生ver.です~。
でも、ミドルリーダーを観察する私が混ざってきてまだまだっす。
醸し出したかったのは、
全体にただよう、わかってる感、こんなことも見えてるしこんな言葉だって使っちゃうんだぜ、という感じ。
これは、男性が社会に押し付けられた性別役割分担を内面化してしまった、男性ならではの哀しき結果なんですが、 まさか歌人の中にも現れるなんて と驚愕している。
一般的に(むりむりちゃん調べ)、歌人や詩人の男性というのはどこか女性的というか、社会が男性に要求してくる男性性(力強さやリーダーシップや女性を上回ることや死ぬまで働くこと)を退けたり、そのような場所から逃げ出してきたりするタイプが多かったし、実際歌や詩がお金につながらないことを思うと、この世界を選ぶ時点で彼らが男性のマッチョイムズとの縁切りか隔絶か、なんらかの葛藤を経ていることが多かった。
それが、自らの男性性とそのドヤ感を素朴に有したまま歌人になるっていうケースは初めて見た。しかもたぶんそのことに気付いてないんじゃないか……。
私のにせもの短歌からもわかるように、底の浅さや中身のなさが特長(長!)です。
読んだ者に、物足りなさと自分も書けるのでは、イヤ書いてないしむりか……という思いを持たせる雰囲気を、そこはかとなくまとっている。のじゃ。
それでも、私が妙に心惹かれて(買って)持って帰ってしまったのはなぜか……。
それは、私がミドル・リーダーが好きだからなんですー……(結局)。
愛憎入り混じるというか、あわれを感じるというか、むげにできないというか。
その被害にも遭い、実態をいち早く見抜き、対策も立てるのですが、一方でミドル・リーダーのことが好きという矛盾した構造に、いつももがいておりました。
今後書きたいテーマのひとつです。
さらにもうひとつ。
絵・が・か・わ・い・か・っ・た!!!
結局それなのでした。(気付いてたよ?)
最初から最後まで絵にキュンとしてました。
動物が人みたいな絵。
安福望さんという方のイラストでした。
カラフルで表情がなくて後ろ姿もかわいい。
この絵でだいぶこの短歌集の世界観救われてるって私は思う。
おまけに、ポストカードもろた!
から、なおさら買っちゃったんだな。
安福望さんの絵。塗ったのは私です~
(今、絵がキテルらしい。)
*1:ミドル・リーダーとは、30~40代男性がしばしば職場で命じられ、リアル・リーダー(役職付き)になる前に、練習というか試練として、それらしくふるまうことを強いられたり強いられなくてもなぜか察知し、自ら進んでそのようになっていった人のこと。私やその周辺が命名。よくみられる症状は、会社と同化する病。私的会話でも会社のことを「ウチは…」とか言っちゃう。特徴は、(何も成し遂げていないのに)エラそう・形式重視・デザイン重視(中身の判断力なし)・マッチョ主義・女性にはやさしい(弱いものと決めつけているため)・24時間働く・からまわっている。
*2:「どや顔 顔文字」で検索したよ。「どや」って打った途端に「どや顔 顔文字」が提案されて、みんなそれぞれの直面するどや感に何とかして向き合おうとしてるんだなと思ったよ。
*3:
それもあって、数ある「どや顔 顔文字」の中からこれを選びました。( ̄‥ ̄)
短歌だしね、多くは言わない(っていうテイ)でしょ。
古典が苦手な国語教師が映画『かぐや姫の物語』を観る
(神木君の『やけに弁の立つ弁護士が学校でほえる』みたいなタイトルになった。
今日観たので! 泣いたので!
やっぱり外部の人、しかも専門家 ≪スクールロイヤー≫ 必要だよ😿)
高畑勲監督の追悼でやっていた、ひと月前ぐらいの『火垂るの墓』に続き、『かぐや姫の物語』を観ました。
(『火垂るの墓』については、もう少し自分のほとぼりがさめてから載せたいです。)
『かぐや姫の物語』についても、良いというのは聞いていた。でも観たことなかった。
結論は、もっと早く観とけばよかったよ~
でも、今観たから、よかったのかもしれない。
てことにしよ。
~もくじ~
- 実は私、古典は……👴
- 『かぐや姫の物語』は、古典的世界観をアニメにして見せてくれてる!
- ここからが本題です。(フェミニズム)
- かぐや姫……好き。
- 求婚者たちのこと
- ~ちょっと休憩~
- アニメという表現方法の魅力を知りました
- すばらしい論がありました
実は私、古典は……👴
古典が苦手であんまり面白いと思っていないのは(突然ぶっちゃける)、ちゃんと読んでこなかったことと、全然自分の頭で想像できないからだった。
全然私のことと思えん……っていつも思っていた。
言葉も少なく、(古語よく知らん。こらこら……)いくらどうこうしても、そこにはその名前の人が最初からいたような顔で当然然と存在して、歌を作ったり車争いしたりしていた。(車争い好きやなー)
しだいに、そのような彼らは、どんな家で誰とどんな風に暮らし、一日のスケジュールはどんなんだったのか? みたいなこと、疑問にも思わないことにしていった。
そんななか、みさき先生*1と同僚だったころに、先生に、『土佐日記』や平安の女流作家たちのことや、漢文漢詩(ざっくりかよ!)について、
先生独自の感性で「かわいい」とか 「おとぼけ」という解説と共に教えてもらったことは、我が運命(と授業 笑)を変える出来事でした。
おかげで文中のあの人たちが本当に人間で、自分とさほど変わらない感性で、
笑わそうとしてきたり、得意げにふるまったり、ふざけたりしていたことを知った。
私のことじゃん☺☺って思い、その中で生きている人を見つけることができた。
『かぐや姫の物語』は、古典的世界観をアニメにして見せてくれてる!
映画『かぐや姫の物語』のすばらしさの一つもそれで、
- 広大な屋敷(寝殿造り?)での過ごし方とか(来たばっかりのころは子どもでもあり、姫は基本走りまわている)、
- 手習いの練習してると思ったらマンガ描いてたり(鳥獣戯画チックかわいい)、
- 十二単の華やかさを観客もまじまじと見ることができるとか(キレーーーー)、
- 長い着物を着たときの歩き方を教えてもらうとか、
- 釣殿に出て月を見ているとか、
- 猫おる……とか、
- 虫干し……とか風に通されて揺れる布布、着物が美しいな、そういえば寝殿造りは夏向きに作られてるって中学校の時習ったよな、つい立て代わりの几帳で部屋を仕切るんだったなという知識と一致したりとか、
- 求婚に来た貴族のおっさん白塗りして紅つけてるのクッキーかよ、とか。
クッキー顔の貴族。
ここからが本題です。(フェミニズム)
求婚者が押し寄せ、姫は、自分が女として、物のように欲せられることを突きつけられ、奈落に突き落とされるような衝撃を受ける。
子ども時代の強制的な終焉。
ここから、かぐや姫の態度は一変する。
ある日を境に近所の年下の仲間たちと遊ばなくなった美登利。
遊びに誘いに行っても、母親が薄気味悪い笑いを浮かべて断りの旨を伝えるようになった。
その原因を、初潮ととる説や、美登利の初店が決まったととる説があるのですが、
でも、そんなのはどっちだって同じだ。
モノ化されるという事実が突き付けられたということ。
ていうか、これってすべての女の人たちの物語じゃん。
これまで『たけくらべ』を読んでも、大学院で論文を書いても、
正直自分のこととは思えていなかったのだと思う。
遊女になることが将来決まっている女の子の、子どもと大人の残酷な境い目を描いた作品だとしか見ていなかった。
全然わかってなかったな私。
これは、自分もそうだし、女の人全員を描いた話だった。
(ひるがえって、それを強制する社会や、享受する男も含めて全員の物語なんですが。)
かぐや姫……好き。
翁の言う、「帝の女御になる。この国の女として生まれてこれ以上の幸せがあろうものか」というセリフも、
帝(勝手に寝所に忍んできて後ろから抱きついてくる。怖すぎ。)の、
「わたくしがこうすることで、喜ばぬ女はいなかった。わたくしのものになることがそなたの幸せになると信じている。」という傲慢なセリフも、
それらは今だって常に女の人が突き付けられる言葉の数々だ。
あるときはとてもフランクに、あるときは本気で心配しているというふうで。
かぐや姫はそれらすべてを断る。
なおも、 「これまで姫様の幸せだけを願ってお仕えしてきましたのに」と言い募る翁には、
「私のためと願ってくださったことが私の幸せにはならぬのです」と毅然として言う。
でも、別にかぐや姫は主張者になりたいわけじゃない。物申したいわけじゃない。
大切に育てられ、共に暮らしてきた中で築いてきた翁媼との信頼や、自分にかけられた愛情をよくわかっている。
だから、引き裂かれるような思いで月に帰っていく。
この映画からは、当時の人たちの生活が見える。人が見える。
姫が普通の女の子だったことがよくわかる。
求婚者たちのこと
有名な5人の求婚者が、リクエストに応えようとして次々にいんちきの宝物を持ってきたとき、詰めの甘さによって企みがあっさりと露呈してしまっても、そのとぼけた様子に姫様はくすくすとおかしそうに笑う。そして言う。
「私も(あの宝物と)同じようなもの。高い金銭を払って手に入れるようなもの。」
この5人の求婚者への無理難題は、単なるエンターテイメントのスパイスなんかじゃないんだ。
これは、女性がモノのように扱われるということを、自ら確認していく作業で、結果それをまざまざと知らされる物語なんだ。
~ちょっと休憩~
迎えに来た月の人たち、一瞬井上涼のギョカイの人たち*2とかぶりました。
めちゃくちゃかわいいな。
この映画で絵を描いた人たちの、得意分野キターッッ みたいな、本領発揮みたいな感じが伝わってくる。
人間達が放った矢が、飛んでいく途中でお花になるとかそういうこと。
これって最古のファンタジーなんだね。しかも人間を描いているんだ。
仏さまが動いてるの初めてみました。
幼稚園にあった(仏教系だったのです)、パーマの菩薩の。
金髪なんだ。かわいい。
みんなふわふわ動いていて、めちゃくちゃかわいい。
月の使者:「月に行けば、この地の汚れもぬぐいされましょう。」
かぐや姫:「汚れてなんかないわ。この地に生きるものはみんな彩りに満ちて! 鳥、虫、獣、草木花、人の情けを!」
アニメという表現方法の魅力を知りました
5人の求婚者の1人、車持皇子の声を橋爪功がやっていて(好演!)、その顔や姿を絵として目前に見せられた時の私の単純な感想:
リアルはこんなじいさんかよ! おえーーー(吐く)😢
っていうことでした。
それで唖然とし、いかに悲惨なことかが一瞬でわかる。
かぐや姫に寓されている、モノ化され所望される女性……。
教室でさ、
「この後5人の求婚者が来てね……」とか言いながら、後日談的に私が間を埋めて語る
(授業では長いのでこの部分の原文は読みません。中学高校の授業で学ぶ『竹取物語』は冒頭だけっす)
より、
(しかも誰が何を要求されどうやっていんちきして持ってきたのかとか、私は全然覚えられないし無理なので、調べてきたメモガン見👁👁)
絵と声によって、
求婚者の一人がはっきりとあからさまに衝撃的なほどじいさんである(吐)
ということを、一瞬にして見せられた方が、みんなすべてを悟るよね。
- 女性が、女性であるというだけで単なる金持ちのじいさんと結婚させられようとしていること。
(じいさんは金持ちの名士なので、良い条件だとさえ言われまくる。)
- そしてそれが親公認である(斡旋さえする)こと。
これらは普通のことだったんだろうけど、普通のことじゃないはずなんだよな。
そういう話を、おえおえ言いながらいっしょにして、
今も変わってないよどうしよう!!(泣)っていうことをみんなでいっしょに考えることができるはずの物語だったんだね。
知らなかった……。
すばらしい論がありました
先行にすばらしい論があるようでした~
とTwitterのTLでまわってきました。
雨宮まみさんの「戦場のガールズ・ライフ」。
(私が)とんちんかんなこと書いてないといいな~と思いながら、答え合わせするようにして読みました。
すばらしかったです。以下、引用しまくります。
「女にとって、大人になるということは、ただ子供から大人になるということではない。大人ではなく、「女」になれ、という周囲からの強制が必ず働く。ただ自分の意志で好きなことをし、気持ちをそのままに表現できた子供時代を失い、人目を気にして誰から見られても恥ずかしくない「女」になれと強いられるのは、自分自身を捨てろと言われているのに等しい。」
全部アンダーライン引こ。
「『私のためのお祝いなのに、私は座っているだけなの?』。当然の疑問を姫は口にするが、誰も相手にしない。」
『 私のためのお祝いなのに~』って、私も言いそうなんだよな。
そして組織にハブられる。
「誰もが望んでも望んでも手に入れられないものを拒む姫は、「わがまま」だと言われる。これが現代の女の話ではなくて、何だろうか。姫はにせものではない。けれど、女としては、にせものなのだ。形だけ化粧し女らしく装っても、姫は女として、自分を殺して生きることができない。」
「表現というものは、ここまでのことができるのか。何かを作るということは、何かを伝えるということは、ここまでのことなのか。今まで誰にもうまく説明できたことのない感情を、なぜこの作品は「知っている」のか。映画館の暗がりの中で歯をくいしばって何度も何度も泣いた。高畑勲は、「女」は、人間だと、言っている。なんでたったそれだけのことで、こんなに心が震えなければならないのか。
(青字はすべて雨宮さんの引用です。下線、太字は私の責任です。)
フェミニズムって、女の問題じゃないんだということを、男性の中にもわかっている人がいたんだ。
むりむりちゃんな私は、むりめな高校生活をどう生き抜いたか!
なんか熱いタイトルを付けてしまった。
風邪引いてるのに……風邪引いてるからかな。
風邪引いてる(しつこい)のに、おひるにお菓子食べちゃだめなんだろうかな、やっぱり……。
書くのは体力がいるんだぜ。
トマトとハムとチーズをサンドして食べました。
サラミみたいなハムで、香りに満たされました!
前に予告したように、無理無理な私はいったいどうやって高校生活を送っていたのか?
自分でも謎です。
私は、英語科という特別学科に通っていたので、周りが全員一律のあのしんどさを感じる機会は、普通の高校より少なかったかもしれません。
帰国子女や留学経験者も何人かいたため、全体的にカオスなかんじでした。
一応進学校だったけど、ピアスやパーマ、化粧をして制服改造している人も、
校則通りにきちんと着ている人も混在していて、
ふだんは真面目なんだけど冬は寒くて上は厚手のセーターとか急に制服じゃなくなる私も気に入っているところでした。
でも、世界は一部のキラキラした人達のものだということは何ということもなく感じていて、そういうのは生まれによって決まっているんだろうなと感じていました。
私は英語科でよかったとおおむね思っていますが、そのキラキラ層に「英語」の要素が加わるとけっこうとんでもないことになるってことも、想像したらわかってもらえる気がします。
が、市民権を得たような顔して歩く感じ。
そのうえ自己アピールが激しく、徒党を組む性質も、普通科のキラキラ組と同じなので、騒がしさが上乗せされたぶん、厄介だったのかもしれません。
私は、大人しくて、自分がこのクラスで「浮いている」と自覚している女の子たちと一緒に過ごしました。
それによって孤独が癒され、知的にも満たされたのと同時に、一人で過ごしたいという意識も芽生えました。
いや、一人になる勇気はなかったから、そのジレンマにもがいていたという感じ。
一人でもいられるようになりたいのに、どうして一人ではいられないんだろう、といったような。孤独を強さだと感じ、憧れていました。
それで、自分ではどうしようもない機嫌の悪さを紙にぐちゃぐちゃと書いたりしていた。そういう日々でしたな。
当時から私は拘束されるのが無理だったので、学校が終わったら一目散に帰っていました。🚌 高校まで、電車と地下鉄とバスを乗り継ぎ1時間かけて通っていたこともよかった。違う世界に行き、帰るという感じ。
家で何してたんだろう。なんか、おやつとか食べてたことぐらいしか思い出せない。
思えばそういう人がいっぱいいた気がする。
みんな、わりと一目散に帰っていた。部活部活っていう人もいたけど、洋楽にはまっていたり、好きな俳優に夢中になっていたり、バイトしてたり、デートしてたり。
英語も私を助けてくれたような気がします。
自分のことを説明する言葉を複数持つことは、当時の私にある程度の落ち着きとプライドをもたらしました。クラスには常に英語でひとり言をしゃべっている友達もいて、めちゃくちゃカッコよくてひそかに真似してた。
今思えばそれが、いくつかの世界を持ち自分を楽にする手段だったということなのかもしれません。
高校時代はそういう感じで生きていました。
教員になってからも学校にはあんまり居場所はなくて、というか転勤したらするごとに、ますますなくなって、しだいにそんなものを求めることを忘れていった。
思い出したときに必死になって探したけど、校内にそんなものは見つかりませんでした笑。
ただし、図書館と職員室は好きでした。これはいつも。
(あとは生物準備室! 好きな人のところに入り浸るくせがある。)
そこで、仕事と全く関係ない話を、好きな人たちや通りすがりの人たちとするのが気分転換で救いでした。アジール(避難所)というやつですね。関係ない話、っていうのが大事。それが一緒にできる人はそんなに多くはなくて、でも、してくれる人のことは大好きでした。うふふふふ。
話は戻って。
言いたかったのは、相手を嫌いになりすぎる自分も、また相手のことも、責めないでおくれ、ってことです~。
相手や自分のことを思いすぎて思い詰めたり、苦しくなったりするのは環境上やむをえないことですから、(諦めるわけでなく)、それを自分や相手の内面の問題に引き取ってしまわないように。
環境を憎んで人を憎まずです~。
(そんなに悪い人じゃないから。あなたも、私も。たぶんちょっと繊細なだけ。)
で、つらくなりすぎる前にビー・アローン!これ鉄則です。
世界を広げる、そこだけにとどめない、とどまらないってことですね。
でもその場所にいなきゃいけない、辞めるわけにいかない場合どうしたら…うーむむ。
やっぱり、勇気を出して休むのはとっても大事なことです~
皆勤賞ってあったっけ…? 忘れちゃった。
世間に皆勤を重視する向きがまだなおあるのは事実ですが、
その思想(皆勤をめざせ。毎日来い。)こそが自分たち(の社会)を苦しくさせている原因でもあることに、最近になって多くの人々が気付き始めています。
出席が過剰に重視されるのではなく、いつでも気軽に休めることの保証が、
人々がより気軽に学校や仕事を一つの場所として楽しむことを可能にする方法です。
(そのことが、その場におけるよりよいはたらきにつながる、と信じているのじゃが……👴)
そこに全勢力を注がなくてもいいのです。
よそに場所を持つ余裕を持たせず、一つの場所に時間も心も縛りつけるようなやり方や、命を懸けるかのようなことを相手に要求するのは、実はとても傲慢で恐ろしいことなのだと思います。
皆勤賞があったかどうかさえ忘れる先生もいるぐらいなので、もはやそんなレベルの問題ですぞ…🐞
まったく関係ない人と、まったく関係ない話をする。
すごく好きな友達でも、すごく嫌だと思ってる人でもなく、あんまり話したことのない人と話す、のはどうじゃろ…。なんでもない話をするんです。気軽にぶらっと~。
インスピレーションで!
相手は先生でもよろし。広がる世界があるかもかも。
自分を楽にするのが大事です~。気を紛らわせるんだ!
オンリーワンのベストフレンドや正解じゃなくて、いくつものいいかもいいかも~なつながりの発見が、楽かもですね。私もですね。🦆
「ちびこ ほんめつとむ」 (ねむの木学園)
「おたよりはまだ来ません」から始まる物語
風邪をひいているのに(たぶん)、薄着で昼寝をしたら悪化した。
貧血にいい調理器具と食材をもとめて出かけて行ったら疲れたのだ。
結果的に、一生懸命買い物をしてしまった。
アイスとかにんにくチューブとかブロッコリーとか。
これでしばらく食卓はうるおうぞ!
フリーになっても金曜日はうれしいのである!!
(冷えピタとかポカリとか万が一の寝込みグッズ買うの忘れた……)
ずぶちゃんの文章を読みました。
最初の、「おたよりはまだ来ません」が、とても好きでした。
それだけでごはん三杯いけますね。
ええ、書けます書けます。
(「税についても書ける!」という自由律俳句を、昔いっしょに作りました。われわれの自信と野心の表れです。)
毎年テレビでやっている、小田和正の『クリスマスの約束』という番組があって、ここ数年は観ていないのですが
(宇多田ヒカルが来た時は観た。めちゃくちゃよかった)、
それを思い出しました。
十数年前から毎年クリスマスにやっている番組で、コンセプトは小田さんが一緒に歌いたい人達に手紙を書いて(それぞれに、自分で!)、番組(観客もいるライブ形式)にお誘いする、というもの。
調べたら2001年からやっているらしい。
小田さんは、7組のアーティストに手紙を送ったけど、全員出演辞退。
誰も来なかったのです。
お手紙出した相手は、山下達郎、松任谷由実、桑田佳祐、桜井和寿、SMAP、福山雅治、宇多田ヒカル。
その顛末を、小田さんは、大勢の期待するお客さん(と視聴者)の前で、「断られちゃったんだよ……」とか「ということで、誰も来ません」と言いながら、よびたかった人達の歌をひとりで歌うのです。
なかには謝罪というか、来られない理由とよんでくれた感謝を返事に書いた人たち(山下、福山、宇多田パパ)もいて、それらを読みながら。
小田さんでも、相手が来ないということがあるんだ……、と驚き、
小田さんがとくに取り繕うことなくそのすべてをのらりくらりとしゃべりつつ歌っていく時間がよくて(もちろん小田さんの歌声がよくて!)、
こんな番組観たことないなーと、ワクワクしながら観ました。
翌日、好きなラジオのDJも昨夜の小田さんの番組よかった~って言ってたよって、母から聞いたのは今思い出した。
それはとても好評だったそうです。
翌年、小田さんは手紙は書かずに、自分の曲といろんな人の曲を歌った。
とにかく「誰も来ない」というのが切なくも、何かの余地を残し、
想像させたり、また不足を感じさせたりもして、全部をジャーン!って完全形にしてみせてこないところがすごくよかった。
おなじみの「誰も来ない」で「ふふふ」と笑い、逆説的にみんながゆるくつながっているというような。
前年の放送を観た桜井和寿から届いたという手紙が紹介されたのが一つのクライマックスで、その内容がけっこう衝撃的だったこともだんだん思い出してきました。
いわく、
- 当時どうしても都合がつかなかったこと
- 番組を観た感想と感動
- 返事も出さなかったことの反省と謝罪(これ立派)
- 形の見えない、新しいことへの不安や、もしかしたら小田さんを利用して立派で豪華な歌番組をやろうとしているのではないかというTBSへの不信感。
売れっ子のミュージシャンが、商業的に都合よく利用されることへの警戒と嫌悪を、こんなふうに露わにすることにどきっとしたし、切実さも感じた。
そういう意志の表明はとても新鮮で、もっと見たいと思ったしすごくいいなと思った。
なにより、新しくて形のよくわからないことへの挑戦を(たとえ小田さんと一緒にであっても)ためらい、恐れ、控えるのがふつうの人たち(私自身も含めて)の心理だなーということ。
こわいもんね。いそがしいし。
でも、桜井和寿もその手紙で書いていたように、この形でよかったのだと。
誰も来なくて、結果、そこから生まれたことがあったということだと思う。
観ていた私は、不完全で未知で先行き不安で思う通りにいかない ところに魅力を感じて惹きつけられた。
小田さんと聴衆とのやり取り、歌、手紙の朗読、語り。
そのときそこで生まれる物語をみんなが楽しみにしていた。
翌2003年、2004年はゲストがやってきた。
2005年は、ゲストにSMAPの中居正広がやってきて、『夜空ノムコウ』を一緒に歌ったのが忘れられない。「僕は歌手じゃない」とか言って、いつもの照れ隠しと本気の拒否とおふざけ半分で逃げ腰の中居君を、小田さんは穏やかに励まし、歌声を引き出していた。いい歌声だった。
私は、小田さん先生みたいだなーーと感動して観ていた。
そのあとは、毎年いっぱい人が来た。
〇年連続出演の人とかも増えて、しだいにカンパニーっていうか、バンドみたいなのができていったみたいだ。(この辺のことは、あんまり興味がわかなかった。)
特筆すべきは2016年で、宇多田ヒカルがやってきた。
「最初のお手紙から、15年の時を経て」というのがドラマチックだし、それは彼女が活動再開した年のクリスマスで、白い服を着た宇多田ヒカルは神様みたいだった!
(また描きたくなってる……。)
子どもみたいな大人みたいな。
小田さんは、「天使のようだ」と言ったそうな。
ずぶちゃん、「おたよりはまだ来ません」から始まるすばらしい物語が、
こんなにもたくさんありますね。
不完全で未知で先行き不安で思う通りにいかないことを
一緒に味わってきた友達と、
そしてまだ見ぬお友達へ。
これからも、今はまだない物語を一緒に作っていきましょうね🏠
だんだん頭が重くてしんどくなってきたのでおしまい。🏥
ふたりは友達。
勝手にお返事してみる
なんとなく、毎日ごはんを作ることになっている。(意志なし)
家にあるものと、思いつきでやっているだけなので、何もなかったり思いつかないとすぐ不機嫌になっておしまい。
気がまわれば妹に電話して助けてもらう。☎
(こういう仕事があったらいいと思う。冷蔵庫見ながら電話して、何を作ったらいいかの提案と作り方指南。その間、気が合えばおしゃべりもする、込みでうーん、1回500円? 安いかー……)
最近は、トマトラーメンとかスンドゥブとかのキットが買ってあったのでなんとなく済んだ。🍅
今日は先週思いついた親子丼。たぶん。
切ったり剥いたりする下準備的なものを10分ぐらいしておしまい。
毎回何にするにせよ、だいたい肉の解凍に時間がかかる(スーパー嫌い)からその間に書く。
読者さんからお手紙みたいな質問がきたので、勝手にこたえてみる。(一部フィクションです。)
あんまり好きじゃない同級生がいてたぶん同じクラスでしんどい、どうしようっていうお悩み。
これは、私が1、2年前にクラスでラジオをやった時に寄せられたおたよりととてもよく似ていました。
(DJ:私。リスナー:生徒たち)
つまり、これは本当にお悩み草っていうか、悩みの種だよな~、
クラス制度。っていうことですね。
だいたい、成績が似通っていたからってだけで集められた人たちが、
約40人も狭い部屋(教室)に閉じ込められて四六時中一緒にいなきゃいけない環境がそもそも理不尽で無理ですよねー。
(ってそのときも言いました。みんなはぶっちゃけ始める私に、笑ってきいてました。)
その環境では、嫌いな人が出現するのは当然だし(っていうかほとんどみんなだし←言いすぎ。これは私だけ。)、
たとえ好きな人でもちょいとうんざりしてくるぐらい一緒にいなきゃいけない謎スケジュールじゃない?
もう少しわかりやすく言えば、好きな人でもあんまりいつも一緒にいると疲れるし飽きるし嫌な気がしてくる……っていうのが自然のことのような気がするのです。
それは家族でも親友でも同じなのではないだろうか。
むしろ、心を許しているからこそ、我が強い自分(私だけか……)が「我慢しなくてもいいんだよ👿」と顔を出し、言いたいこととやりたいことを遠慮や気遣いに包むことなく思うまま垂れ流す、みたいなこと、ありませんかね……。
それは無理なことの多い私だけなのかもしれないけど(もっと我慢して?)、もう仕方のないことなんですよね。
環境が悪い。状況が悪い。ジャーン。
そのうえ自分の気分の乱高下もありますし……。
一日中ずっと笑ってなんぞいられないのだよ……。
じゃあどうすればいいのか?
ずばり、距離が必要!!
距離があれば、誰かのことを思いすぎることもなくやり過ごせる。
距離があれば、ほんの少しやさしくできる。
距離があれば、相手と自分は他人なのだと冷静に理解できる。
じゃあ、どうすれば・・・・・・???
さんはい、ひとりになろう!! YEAH!
ずっと人と(誰であっても)一緒にいるのはしんどいです。これ自然の摂理です。
機嫌悪い自分が迷惑をかけないように、ひとりになろう。
疲れた心身をリラックスするために、ひとりになろう。
なんということもなくひとりになろう。
ソロ活動のススメです。
~どこでひとりに??~
・おすすめは図書館です~。ただ行って、ソファーでまったりしたらいいよ~
疲れたからぼーっとしてくる~って言ったらいいよ。
・早く帰るのじゃ。部活は自主的にお休みの日にしたらいいよ。心身のお疲れは欠席理由になるよ。早く帰って、好きなことして~。
・たまにはお休みするのもありです~(やや上級者向きか!)
こんな私はいったい学生の時どうやってやり過ごしてたんだろう。
次はそんなこと思い出してみます~☕
名越さんも好きです~
動物の写真がもうないんじゃ……
ふつうでちょうどいい空間で寝こむ🐈
珍しく風邪っぽい症状で、鼻水が出て声が変なのです。
これから悪くなるか、よくなるかの境い目にいる実感がある。
ここ数日、変にじめじめと蒸し暑く、薄着でいた(いる)のが原因だと思う。
なんとなく後ろから寒さがおそってくるような気がしているのも、
夕方になってきたのにあたたかくしていないためか、悪寒的なものなのかよくわからない。
感覚的に、そんなに悪くないと思うのでとりあえず放っている。
ラジオをかけはじめると終わるまで終われないので、わりとずっとここにいることになる。
それは、お菓子を食べ始めたら最後まで食べてしまわないと終われないのや、
小説を読み始めたら最後まで読んでしまわないと終われないのと同じかもしれない。
風邪っぽいにおいをかぎながら、柴崎友香の『ハッピーでニュー』(角川文庫)を読んだ。
新年に寝込んでいる一人暮らしの女性の話。
体温の低い感じや、自分に関係あるようでない同世代の女優への複雑な心情、
ちょっとだけ自分より世間のことを知っている(年上の)同僚との会話。
少ない文字数でこんなに伝えてくるってすごいよな~って、鼻をすんすんいいながら読む。
実はずっと前に読んだ時は、神田川さん(年上の同僚)がちょっと嫌だった。
帰省した実家に鍵を忘れてきたからって押しかけてくるなんて、かなりずうずうしいと思った。
でも、今回全然嫌じゃなかったんだよなー神田川さん。
最初こそ中年の厚かましさで押し切ってくるけど、主人公が神田川さんに物を言えていないわけじゃないし、
「ただ一晩、ほんのすみっこを間借りさせて。置き物と思ってほしい」
っていう言葉どおり、神田川さんは主人公の生活(部屋ぐちゃぐちゃ)に、一切干渉も寸評もしない。
だからといってひたすら置き物化しているわけでもない。
「ハイハイわかったこの下のマットレスを引っ張り出して敷けばいいのね? やっとくから。お風呂入るとこだったのね、本当にごめん、入ってきて」
ってな感じで、ちょっとお母さんかお姉ちゃん入ってる。
すごいふつう。ちょうどいい。
(もちろん主人公は、もてなしたりしない。)
そしてその一晩、ちょうどいい合いの手と見解を交えて主人公とおしゃべりしておしまい。
なんてちょうどいいんだ!!
いろいろと自分に重ねたり、ふつうでいいよな~と思うんだけど、それを書けるのがすごいんだけど、そのうえ一家言あるんだよみんな。
一家言っていうか、意見? 意思?
でもでもでもでも~
妙に心ひかれるのは、主人公の部屋ぐちゃぐちゃがもっとも効いているのかもしれません……
動物の名前を集めてます~