古典が苦手な国語教師が映画『かぐや姫の物語』を観る
(神木君の『やけに弁の立つ弁護士が学校でほえる』みたいなタイトルになった。
今日観たので! 泣いたので!
やっぱり外部の人、しかも専門家 ≪スクールロイヤー≫ 必要だよ😿)
高畑勲監督の追悼でやっていた、ひと月前ぐらいの『火垂るの墓』に続き、『かぐや姫の物語』を観ました。
(『火垂るの墓』については、もう少し自分のほとぼりがさめてから載せたいです。)
『かぐや姫の物語』についても、良いというのは聞いていた。でも観たことなかった。
結論は、もっと早く観とけばよかったよ~
でも、今観たから、よかったのかもしれない。
てことにしよ。
~もくじ~
- 実は私、古典は……👴
- 『かぐや姫の物語』は、古典的世界観をアニメにして見せてくれてる!
- ここからが本題です。(フェミニズム)
- かぐや姫……好き。
- 求婚者たちのこと
- ~ちょっと休憩~
- アニメという表現方法の魅力を知りました
- すばらしい論がありました
実は私、古典は……👴
古典が苦手であんまり面白いと思っていないのは(突然ぶっちゃける)、ちゃんと読んでこなかったことと、全然自分の頭で想像できないからだった。
全然私のことと思えん……っていつも思っていた。
言葉も少なく、(古語よく知らん。こらこら……)いくらどうこうしても、そこにはその名前の人が最初からいたような顔で当然然と存在して、歌を作ったり車争いしたりしていた。(車争い好きやなー)
しだいに、そのような彼らは、どんな家で誰とどんな風に暮らし、一日のスケジュールはどんなんだったのか? みたいなこと、疑問にも思わないことにしていった。
そんななか、みさき先生*1と同僚だったころに、先生に、『土佐日記』や平安の女流作家たちのことや、漢文漢詩(ざっくりかよ!)について、
先生独自の感性で「かわいい」とか 「おとぼけ」という解説と共に教えてもらったことは、我が運命(と授業 笑)を変える出来事でした。
おかげで文中のあの人たちが本当に人間で、自分とさほど変わらない感性で、
笑わそうとしてきたり、得意げにふるまったり、ふざけたりしていたことを知った。
私のことじゃん☺☺って思い、その中で生きている人を見つけることができた。
『かぐや姫の物語』は、古典的世界観をアニメにして見せてくれてる!
映画『かぐや姫の物語』のすばらしさの一つもそれで、
- 広大な屋敷(寝殿造り?)での過ごし方とか(来たばっかりのころは子どもでもあり、姫は基本走りまわている)、
- 手習いの練習してると思ったらマンガ描いてたり(鳥獣戯画チックかわいい)、
- 十二単の華やかさを観客もまじまじと見ることができるとか(キレーーーー)、
- 長い着物を着たときの歩き方を教えてもらうとか、
- 釣殿に出て月を見ているとか、
- 猫おる……とか、
- 虫干し……とか風に通されて揺れる布布、着物が美しいな、そういえば寝殿造りは夏向きに作られてるって中学校の時習ったよな、つい立て代わりの几帳で部屋を仕切るんだったなという知識と一致したりとか、
- 求婚に来た貴族のおっさん白塗りして紅つけてるのクッキーかよ、とか。
クッキー顔の貴族。
ここからが本題です。(フェミニズム)
求婚者が押し寄せ、姫は、自分が女として、物のように欲せられることを突きつけられ、奈落に突き落とされるような衝撃を受ける。
子ども時代の強制的な終焉。
ここから、かぐや姫の態度は一変する。
ある日を境に近所の年下の仲間たちと遊ばなくなった美登利。
遊びに誘いに行っても、母親が薄気味悪い笑いを浮かべて断りの旨を伝えるようになった。
その原因を、初潮ととる説や、美登利の初店が決まったととる説があるのですが、
でも、そんなのはどっちだって同じだ。
モノ化されるという事実が突き付けられたということ。
ていうか、これってすべての女の人たちの物語じゃん。
これまで『たけくらべ』を読んでも、大学院で論文を書いても、
正直自分のこととは思えていなかったのだと思う。
遊女になることが将来決まっている女の子の、子どもと大人の残酷な境い目を描いた作品だとしか見ていなかった。
全然わかってなかったな私。
これは、自分もそうだし、女の人全員を描いた話だった。
(ひるがえって、それを強制する社会や、享受する男も含めて全員の物語なんですが。)
かぐや姫……好き。
翁の言う、「帝の女御になる。この国の女として生まれてこれ以上の幸せがあろうものか」というセリフも、
帝(勝手に寝所に忍んできて後ろから抱きついてくる。怖すぎ。)の、
「わたくしがこうすることで、喜ばぬ女はいなかった。わたくしのものになることがそなたの幸せになると信じている。」という傲慢なセリフも、
それらは今だって常に女の人が突き付けられる言葉の数々だ。
あるときはとてもフランクに、あるときは本気で心配しているというふうで。
かぐや姫はそれらすべてを断る。
なおも、 「これまで姫様の幸せだけを願ってお仕えしてきましたのに」と言い募る翁には、
「私のためと願ってくださったことが私の幸せにはならぬのです」と毅然として言う。
でも、別にかぐや姫は主張者になりたいわけじゃない。物申したいわけじゃない。
大切に育てられ、共に暮らしてきた中で築いてきた翁媼との信頼や、自分にかけられた愛情をよくわかっている。
だから、引き裂かれるような思いで月に帰っていく。
この映画からは、当時の人たちの生活が見える。人が見える。
姫が普通の女の子だったことがよくわかる。
求婚者たちのこと
有名な5人の求婚者が、リクエストに応えようとして次々にいんちきの宝物を持ってきたとき、詰めの甘さによって企みがあっさりと露呈してしまっても、そのとぼけた様子に姫様はくすくすとおかしそうに笑う。そして言う。
「私も(あの宝物と)同じようなもの。高い金銭を払って手に入れるようなもの。」
この5人の求婚者への無理難題は、単なるエンターテイメントのスパイスなんかじゃないんだ。
これは、女性がモノのように扱われるということを、自ら確認していく作業で、結果それをまざまざと知らされる物語なんだ。
~ちょっと休憩~
迎えに来た月の人たち、一瞬井上涼のギョカイの人たち*2とかぶりました。
めちゃくちゃかわいいな。
この映画で絵を描いた人たちの、得意分野キターッッ みたいな、本領発揮みたいな感じが伝わってくる。
人間達が放った矢が、飛んでいく途中でお花になるとかそういうこと。
これって最古のファンタジーなんだね。しかも人間を描いているんだ。
仏さまが動いてるの初めてみました。
幼稚園にあった(仏教系だったのです)、パーマの菩薩の。
金髪なんだ。かわいい。
みんなふわふわ動いていて、めちゃくちゃかわいい。
月の使者:「月に行けば、この地の汚れもぬぐいされましょう。」
かぐや姫:「汚れてなんかないわ。この地に生きるものはみんな彩りに満ちて! 鳥、虫、獣、草木花、人の情けを!」
アニメという表現方法の魅力を知りました
5人の求婚者の1人、車持皇子の声を橋爪功がやっていて(好演!)、その顔や姿を絵として目前に見せられた時の私の単純な感想:
リアルはこんなじいさんかよ! おえーーー(吐く)😢
っていうことでした。
それで唖然とし、いかに悲惨なことかが一瞬でわかる。
かぐや姫に寓されている、モノ化され所望される女性……。
教室でさ、
「この後5人の求婚者が来てね……」とか言いながら、後日談的に私が間を埋めて語る
(授業では長いのでこの部分の原文は読みません。中学高校の授業で学ぶ『竹取物語』は冒頭だけっす)
より、
(しかも誰が何を要求されどうやっていんちきして持ってきたのかとか、私は全然覚えられないし無理なので、調べてきたメモガン見👁👁)
絵と声によって、
求婚者の一人がはっきりとあからさまに衝撃的なほどじいさんである(吐)
ということを、一瞬にして見せられた方が、みんなすべてを悟るよね。
- 女性が、女性であるというだけで単なる金持ちのじいさんと結婚させられようとしていること。
(じいさんは金持ちの名士なので、良い条件だとさえ言われまくる。)
- そしてそれが親公認である(斡旋さえする)こと。
これらは普通のことだったんだろうけど、普通のことじゃないはずなんだよな。
そういう話を、おえおえ言いながらいっしょにして、
今も変わってないよどうしよう!!(泣)っていうことをみんなでいっしょに考えることができるはずの物語だったんだね。
知らなかった……。
すばらしい論がありました
先行にすばらしい論があるようでした~
とTwitterのTLでまわってきました。
雨宮まみさんの「戦場のガールズ・ライフ」。
(私が)とんちんかんなこと書いてないといいな~と思いながら、答え合わせするようにして読みました。
すばらしかったです。以下、引用しまくります。
「女にとって、大人になるということは、ただ子供から大人になるということではない。大人ではなく、「女」になれ、という周囲からの強制が必ず働く。ただ自分の意志で好きなことをし、気持ちをそのままに表現できた子供時代を失い、人目を気にして誰から見られても恥ずかしくない「女」になれと強いられるのは、自分自身を捨てろと言われているのに等しい。」
全部アンダーライン引こ。
「『私のためのお祝いなのに、私は座っているだけなの?』。当然の疑問を姫は口にするが、誰も相手にしない。」
『 私のためのお祝いなのに~』って、私も言いそうなんだよな。
そして組織にハブられる。
「誰もが望んでも望んでも手に入れられないものを拒む姫は、「わがまま」だと言われる。これが現代の女の話ではなくて、何だろうか。姫はにせものではない。けれど、女としては、にせものなのだ。形だけ化粧し女らしく装っても、姫は女として、自分を殺して生きることができない。」
「表現というものは、ここまでのことができるのか。何かを作るということは、何かを伝えるということは、ここまでのことなのか。今まで誰にもうまく説明できたことのない感情を、なぜこの作品は「知っている」のか。映画館の暗がりの中で歯をくいしばって何度も何度も泣いた。高畑勲は、「女」は、人間だと、言っている。なんでたったそれだけのことで、こんなに心が震えなければならないのか。
(青字はすべて雨宮さんの引用です。下線、太字は私の責任です。)
フェミニズムって、女の問題じゃないんだということを、男性の中にもわかっている人がいたんだ。