むりむりちゃん日記

私が孤独なのは私のせいではない

マシな大人になるためにできること

「私たちは『買われた』展」に行った。

 

思ったことはたくさんあったけど、私は一人で行ったことをすごく後悔した。

誰か友達を誘って一緒に行けばよかった。

この現実について、一人でも多くの人が知らなければいけないと思ったから。

女の子たちが安全に生きていくことができる社会にするために、私も何かしなければいけないと思った。

その一つとして、この文章を書きます。

見たことや考えたこと、聴いた話を少しでも広めて、一緒に自分の問題として考えたいし、できることをしたい。

少しでもマシな大人になりたい。

 

「私たちは『買われた』展」とは・・・

twitter.com

貧困や虐待などによって住む場所や居場所、お金に困り、または騙されて売春に足を踏み入れた女の子たちの「買われた」現実や伝えたいことを表す写真、体験記や日記、手記、「大人に伝えたいこと」をテーマにしたメッセージや作品の展示。

 

神戸では、9月20日(木)、21日(金)の二日間開催された。

初日に、Colabo代表の仁藤夢乃さんの講演があった。

Colaboは、帰る場所を失い、街で危険にさらされている少女をレスキューしている民間の団体。

講演や展示は、ガールズ・シェルター(女の子たちの居場所)の活動を理解し、支援する人を増やすことを目的の一つとして開かれていた。

 

仁藤さんの講演は、衝撃的なこともあったし、うなずくこともたくさんあった。

信じられないことに、給食費や修学旅行の費用が足りないことと、売春が直結していて、隣り合わせにあったりした。

そのことを、教育現場も、社会も全然掬えていないし、私も含めて人々の認識が現実に全然追いついていなかった。その乖離が衝撃的だった。

また、私が高校で勤めていた時に感じたことともすごく重なった。

例えば、

・子どもにSOSを出させない教育の在り方への疑問

(生徒に「嫌」とか「できない」を言わせない。勉強にかぎらず、校則順守、集団行動の強制。その場から「逃げる」ことが許されない。)

→教師は生徒にSOS出されてもどうしたらいいかわからないから、生徒に「大丈夫」って言わせる「大丈夫?」を聞くんだよね。

→教師の「挫折」経験不足、教師の出すSOSの受け皿不足……っていうか皆無。というのを私も実感する日々だった。

・自助努力を求められる社会(「自己責任論」の根強さ)での生きづらさ

・子どもが駆け込める場所の少なさ

・子どもにレッテルを貼り、「管理」しようとする意識が根深い。

 

仁藤さんの話の中でもっとも心に残ったのは「選べる」ことの大切さについてだった。

「夜の街で助けてくれる場所や行き場が、Colaboしか無い」(あとは、管理や矯正的な側面のある公的施設や警察)のではなく、Colaboか、他にもいくつもの選択肢がある中から女の子が選べることが大事と言っていた。

聴いていて、選ぶことには主体と意志が伴うことや、見失わされがちな自分への価値を感じる行為だとわかった。

というかそれ以前に、「選ぶことができること」は、生きていくうえで当然の権利のはずなんだよな。

「それしかない」というのはみじめな気持ちになるし、自分が大切にされているようには到底思えない。それでは自分を大切にする気持ちも生まれないし、保てない。

(仁藤さんいわく、女の子たちをレスキューする団体はわずかで、今日はどの団体の所に行こうか……などと、女の子たちは選べない。一方で、売春スカウト達は山のようにいて、女の子たちはその中から「選べる」状態にさせられるらしい。それが、女の子たちが売春の方に取られる原因でもあると言っていた。でも、その「選べる」は主体的なものではなくて、あまりにも選択肢がなさすぎる中から選ばされている状態。最悪の中から選ぶということに過ぎない。それでも、「売春が発生するのは『売る側』がいるから」、などと「自己責任」を追及される。)

 

時にユーモアを交えながら、にこやかに、でも限られた時間内に伝えたいことが山のようにあるということを感じさせる講演だった。

とにかく、「少しでもいい大人」、「マシな大人」になれるように、できることをしてください、という言葉がすごく印象的だった。

できることは、一緒に声をあげたり、団体に寄付をしたり、物品や食材の寄付をしたり、たくさんあると言っていた。

Colaboの 詳しい情報はこちらです。

→ https://colabo-official.net/

 

この国の大人っていうのだけでもう最悪の罪だよなと思う。自分のこと。

女の子たちの心と体の傷付く取り返しのつかないことが起きていて、過去に戻ってその被害を無かったことにすることはもうできない。

こんなふうなことにしてしまったことが最悪で、自分もその一人としてクソだなと思う。

だけど、それでもまだマシになることができるのかな。

私も加害者であることを、何とかできる方法があるのかな。

このまま何もしないなんてクズのままだよなと思った。

 

私は、2年前の「ETV特集」(NHK)「私たちは『買われた』展」を観て初めて知り、それからずっとこのことが頭から離れなかった。

 

売春をする女の子たちは、彼女たちではなく、明らかに大人が悪かった。

周りの関係者とか、女の子たちを騙してスカウトしたり、買ったりする大人だけでなく、このような状況になっていること、全然知らないこと、解決するために何もしていないことのすべて、大人の責任で問題だと思った。もちろん私も悪かった。

番組では、展示会を見た人の様子や感想も映っていた。

ある女の人は、「申し訳ない」と言って泣いていた。

その姿を見ながら、私もそれしかないっていう気がした。それ以外の言葉が見つからなかった。

しかし一方で、例えば、「買われた」展という名前について、売った」くせに被害を訴えるような名前はどうなんだ」とかいう誹謗中傷があったのだという。

それは、少女と買った側が対等の関係で、少女も買う側と同じように様々な選択肢の中から選択ができるその一つとして、売春を「選び」、おこなっているという認識がいつまでも抜けない者による、買う側(そして放置している大人全員)にとって都合の良いファンタジーを乱暴に振りかざした暴力だと思う。

問題を女の子たちのせいにしておけば、私たちは何もしなくていい。

ただ彼女たちを自分から切り離して、責めていればいいだけだ。

 

でも、番組をみてショックを受けたくせに、私だってそれから何をしたわけでもないまま(友達にその時に録画したDVDを貸したぐらい)、2年経った。

 

講演会の翌日、パネル展を見に行った。

講演会の聴衆は、中高年の世代の人々が多かったように見えたけど、金曜夜の閉館間際の時間帯は、私と同じ世代のスーツ姿の男性や女性が来ていて、時間をかけて展示を見ていた。

私は、おおむねETV特集で紹介された内容なのだろうと思うことにして、落ち着いて見ようとしたけど、やはり平常心ではいられなかった。

番組で紹介されたエピソードは同じであっても、文字になって淡々と事実が述べられていくのを見ると、ショックを受けた。

 

読みながら、何度も、いろんな時点で、「この時に安全で自由の保障された保護があれば」とか、「なんで無いんだろう」とか、思った。

 

つまり、全く選択肢がなかった。

選べないし、知識も気力も無かった。

 

自分の姿も重なった。

重ねたのは、自分が職場でハラスメントを受けていた時のことだった。

自分の精神を殺して相手の言うことを聞き、肉体的(経済的)に生き延びるか、あるいは全部死ぬか。

本当にそれしかないんだよね。それしかない瞬間が、一人の私の身に急に起きる。

なぜか一人だったし、助けてくれる人や機関はなかった。

 

また、いくつかの体験を続けて読んでいくうちに、原爆や戦争体験者、アウシュビッツに入れられた人たち、ハンセン病の人たちの存在や、特に体験記とも重なった。

(誰かを誰かに似ているということは、誰に対してもその個人の経験を尊重しないようなことになり、してはいけないことだとは思いつつも、すみません。)

つまりこれは、戦争の被害や病気への偏見のように、人々の愚かな振る舞い(無関心も含む)による被害で、社会全体でこのようなことが無いように目指されるべきことであるはずなのだと思った。

でも、原爆やアウシュビッツの被害については、人々が関心を寄せ、反省し、その場所を訪れたりしてもう二度と繰り返さないことを誓って大事な場所として認識されているのに(それに対して異論はないです)、この「私たちは『買われた』展」はそういうふうに扱われたりしない。

さっきも書いたように、誹謗中傷さえ受ける。

それはなぜかというと、日本人の性に対する認知のゆがみ、性教育の不足やズレ、人権意識の欠如、女性差別の根強さによるものだと思う。

こんなことを書いている私でさえも、友達を誘って行かなかった。

それは、どこかに、特別な分野の特殊な問題という意識があったからだと思う。

つまり、「女の子たちの問題」であり、当事者とそれに関心がある人だけに押し付けるような、問題から逃げるような意識。

 

でも、この展示会が大きな場所で行えない現状も、偏見や好奇の視線から守り、危害が加えられないように十分な準備をしなければならないことも、社会やわれわれの意識の欠如の問題でしかない。

 

展示会のポスターに書かれていた女の子たちの言葉を引用する。

「私が売春していたのは、小6の11月26日から始まり、2年間です。」

「『こいつらに捕まったのが私でよかった』と思うようにしていた。」

「‟男性”は私を道具としてしか見なかった」

「『お金ないなら、稼いできてよ』友達がいなくなるのが怖かった私は従った。」

「私から勉強がなくなったら、何も残らないと思った。」

「JKビジネスがきっかけで お姉ちゃんに誘われて。」

「体を差し出す代わりにおにぎり一つもらった。」

 

最後の子は、お金さえもらっていなかった。おにぎり一つと、その日寝る場所だけ。

彼女たちは私だし、私だったかもしれないし、彼女たちを追い詰めたのは私でもあると思う。

 

しんどいことを書いたけど、大事なことだと思っている。

少しでもマシな大人になるために。

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むりむりちゃん、結婚式を語る♡♡♡

みんな結婚式好きみたいなので、理解されるのかどうかわからないけど、今、結婚式問題についての文章を書いています。

それで、実験的にここにも考えたことを載せてみます。

 

前回(一週間前)の授業で私が口走った「いわゆる家族観」(私が嫌いな)について、あまり伝わらなかったので(苦笑)ここに書こうかなと思います。

 

ずぶちゃん先生が書いていました。

zubunogakkou.hatenablog.com

 

ステレオタイプな家族観が無意識のうちに、そうでない現実を生きる個人を傷つけることはよくあることだろう。(略)

血のつながった家族は仲良くなければならない」「必ず分かり合えるはずだ」「その団結の意志を確認するためにあつまらねばならない」云々。

そういった個人の本音を封じた慣習が形骸化している場合、仕事と同様の苦痛を伴う(しかも無償で)。

(下線引いたのはわたしです~。文字大きくしたのも~。水色にしたのも~。)

 

個人の本音を封印」し、「形骸化」した「慣習」とは何か・・・??

そう、お盆や正月に集まる系の家族の行事のことですね。

 そこではたいてい、(話題もないことだし、)結婚の催促か探りか、コハマダカ? ってカジュアルに呪いかけられる。

あるいは、私が今書こうとしている結婚式ね。

結婚式について、社会学者の岸政彦はこう書いている。

 

そうした幸せというものは、はじめに書いたとおり、そこから排除される人々を生み出す、という意味で、それは同時に暴力でもある。私は友人や卒業生の結婚式に行くことが楽しみだし、実際に心から祝福するけれども、それでも他の来賓が挨拶で「一日もはやく元気な赤ちゃんを」とか「子宝にめぐまれますように」と言うのを聞くと、とても複雑な気分になる。

ここのところで私はいつも、ほんとうに、言葉が出なくなる。幸せが暴力をともなうものだとして、それでは私たちは、それを捨ててしまうべきなのか。極端な話、ヘテロセクシュアル異性愛)の人びとが結婚式をあげるということは、それだけで同性愛の人びと(注:筆者はこの文章の前に、単身者についても触れている)に対する抑圧(注:「呪い」とも言っている)になりうる。私たちはそういうものを、どうすれば祝福できるだろうか。

 

(岸政彦『断片的なものの社会学朝日出版社

 

 

私はもう結婚式には行かないだろうし、祝福するかどうかは相手との関係性によると思っている。

でも、結婚式の暴力性と抑圧の存在について他の人が書いてくれたのは本当にありがたいと思った。

しかも筆者は男性

(私だけが書くと「嫉妬?笑」という斜め上からのブーメラン飛んでくるおそれ。)

立ち読みをしたこの一節のために、この本を買ったと言っても過言ではない。

 

筆者は、人々の結婚式への憧憬を、

 

私たちは、ただ存在しているだけで、おめでとう、よかったね、きれいだよと言ってもらえることはめったにない。だから、そういう日が、人生の中で、たとえ一日でもあれば、それだけで私たちは生きていけるのだ。

 

 

と分析している。

  1. 「何もしてなくても祝福されること」は実現しがたいし、
  2. 実現したとしても、結婚式のように、他者を傷つける可能性を孕む。

  あるいはお盆や正月の集合で起きる出来事のように。

 

私は、①も②も、人々が自分で考えるようになれば変わるものだと思っている。

 

でもそれにはまず、みんなに「家族主義の暴力性」というところから共有してもらわないといけないみたい。

女の子たちには共感を得ても、一般的にはどうなのかな~と思ったのが、前回授業での、とあるやりとりだった。

 

前回授業での私の「いわゆる家族観が無理」という発言に対して、

「家族感って結構好きなんだよね」とかいう、ぼーっとした返しがきたんだけどw

私が言ったのは古来の因習にまみれた「家族観」であって、

うすぼんやりしたイメージの「家族感」のことじゃないんだよね。

いやじゃあもうむしろそっちの「家族感」(家族って感じ)でもいいわ、その「一つ屋根の下」的な、ぬるいが謎の拘束力を持つ伝統が、まさに古くて暴力で嫌だって言ってんの。

 

・暴力性を何も感じないまま再生産するのも、(無知の)暴力なんだぞww

 

そもそもね……、

・生徒の「自己紹介」に対して瞬時にノック(野球の)して返すだけの授業の仕方は、相当の下調べ(もちろん生徒について)と準備がなければ無理なんだぞwww

・人前で喋るっていうことや「先生」と呼んでもらえることは、つまりその特権を何もせずとも有しているってことをきちんと弁えて、安住せず、相手をナメず、相手に応じるための準備や、要求に応えるための準備をしてこなくちゃダメなんだぞwwww

・相手の発言に対してまともに返さず(返せず)、自分の知っていることで応急対処して長々喋るのは……

安倍ちゃんと一緒だぞwwwwwごはん論法🍚

                              

というわけで、場を壊すのもアレなんで、ここにクソリプみたいな文章書いてみました。

これ、発禁処分になるんかな?笑 

いや、ここ民主義国家だよね?

あ、独裁政権か、「自由民主党」という名の与党の、安倍ちゃんのw

 

クソリプの要所要所に、ずぶちゃん先生の文章を引用するのは本当に申し訳ないことなんですが、

すごくいいことを書いてくれているから最後にもう一節だけ。浄化浄化。

 

 

私の家は、誰もその苦痛をあえて受けようとは思わないので集まりはない。結婚していたとしても、常に会いたい意志を持つひと同士今まで通り一対一の関係を続けさえすればいいと思う。血がつながっていようがいなかろうが、しがらみがあろうがなかろうが、会うか会わないかは自分で決めることだ。どうにでもできる。これを機に、友人や生徒とも合宿(ともに暮らすこと)をしたいと思うようになった。

 

 

 

ずぶちゃんは、私が一方的に敬遠して離散しているマイ親戚一家(離散は私だけか)にも、いつか私と一緒に会いに行きたいという夢を語ってくれたことがある。

「血」へのわけのわからないこだわりから、わけのわからない友達が混じる一家団欒への移行。

おもしろすぎる。

パロディ? ウッチャンの『LIFE!』かな?  

劇団じゃん。プレイだね。家族プレイ。

第5話「知らない人が『姪の友達だ』と言ってお盆に家にやって来るの巻」安部公房かーい)。書こかな。

生きてたい気がしてくる。

それから、私には最近できたお友達たちもいて、その人たちともっともっと話がしたいと思っている。

自分が傷つき、こじれている原点まで振り返って戻って、話をする。話をきく。

合宿いいな~。合宿して、とことん話し込みたいです~~

縁切り寺「ずぶの学校」めちゃええなあ!!

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間違いなく、この夏ナンバーワンの帯です~。書店員さんのグッジョブ。

「女子力」って言葉は、はっきり言って呪いにまみれているんだよ~

秋元的なのよ~

シスターフッドで合宿しよぜい♡

 

テレビは死んだ

もう落ち込まない、というような何か変な確信を持っている。

落ち込みはたいてい、社会や他人と比べた際に起きるもので、私の場合「落ち込まされている」と言う方が適切であると思う。

しかし、たとえ私が落ち込んでも、それは単に私を落ち込ませて思い通りにしようとしてくる社会を喜ばせるだけらしいのでやめた。

(人と違うことに不安を抱き、落ち込む結果、社会に合わせて生きる=社会の要請通りの型にはまり、粛々と生きるということ。)

 

最近Twitterをやめてしまった、落ち込み屋さんで悩み派仲間の友達(かわいいでしょ?)が、 ゆっくり・静かに・穏やかに」「焦らない・こだわらない・無理しないと言っていて、

恵さんも、無理して周りに合わせると疲れてしまうから、ゆっくりね」と言ってくれた。

人と比べない。そう考えたら、人々が働いている時間のことも、月曜から金曜までの平日のことも、あんまり気にしなくていいはずなのだった。

土日や連休の幸福感はしっかり享受するけどね。

 

少しずつ、また書くようになった。

言葉がうるさいのは相変わらずで、自分がうるさいのだけど、自分以外のマジョリティがうるさいので(自分もマジョ側でもある)、

テレビを消音にしている。

本当はテレビを消して音楽を流すのがいいけど、あまりたくさん持っていないのと、

自分が好きで知っている数少ない音楽をエンドレスリピートするのも飽きたし世界が狭すぎるのでテレビ消音にしている。

昨日は、昼からやっていた歌番組を消音で流していて、自分でもついにここまで来たかと思った。

そんな理由で、ラジオにはぜひぜひがんがん頑張ってもらいたいものである(新聞の「市民の声」投稿欄風。えらそうで無責任 笑)。

 

(それにしてもテレビは消音にしていてもうるさい。)

テレビがうるさいのは、だいたいの番組がもう全然面白くなくて、ミソジニーで、日本大好きで、病気不安を煽ってきて、クイズ王で、出ているのが良純一茂坂上梅沢ばかりだからだ。

いや、それらに対する私のヘイトがいちいちうるさい!!!

だから見なくなってしまった。

 

たとえば、大坂なおみ選手の対戦相手のセリーナ選手の抗議にまつわる問題(女性、人種差別)を、日本のテレビは一切やらなかった。

海外の報道を翻訳したもののなかには、セリーナ選手が自分の地位を嵩に審判を脅したという論もあった。

私はそういう話をしたいし、真相が知りたい。でも日本のテレビじゃ絶対無理。

 

驚くのは、この私ですらその惨状にもう慣れて、日本のテレビや報道に全く期待していないことだ。

(一人ヘイトを叫ぶのはしんどいし、趣味じゃないんだよ。)

 

これは安倍政権へ向けるものと全く同じものだ。

いや、本当に、疲れることに疲れてしまった。

 

売れればいいのか? 生活していければいいのか?

中身は? 

誰が、また、どんな思想を持った人が書いた(作った)ものか、ということは?

人権意識は?

……大事やろがい!!!!!

 

私もかつてはテレビが好きだった。でも、だんだん嫌いになって今は消音。

テレビは視聴者に合わせているらしい。

その劣化を全部こっちのせいにされてもとは思うものの、

ぺらっぺらの感性や情緒が想定され、ナメられまくっている

ってことに、そろそろみんな私と一緒に怒ろうぜ。

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タイル博物館(岐阜県多治見市)と、作った(並べた)タイル写真立てだよ~

小学生が学校帰りに寄ってた。

 

 

安室ちゃんのこと

にわかもにわか、絵にかいたようなミーハーで恥ずかしいのだけど、安室ちゃんのことが好きになったので書きます。

ミーハーはmyアイデンティティですっ!

 

きっかけは妹で、以前も書いたのだけど妹は安室ファン。

さかのぼること高校時代、母と一緒にライブに行ったのが最初らしい。

(ちなみに当時からMCは苦手で皆無、ひたすら歌い激しく踊り走り抜ける超ストイックスタイル。)

それ以降、妹は途中他のアーティストによそ見してブランクがあったりもしたけど、数年前から再び安室愛が復活し、また足繁くライブにも行くようになっていた。

私はそもそもあまりダンスに興味がないこともあり、横目で見ていただけ。

そんな時の引退発表だった。

 

私はハッとしたものの、自分では90年代の小室ナンバーぐらいしか思いつくこともできずなんだか乗り遅れた感でTwitterを見ていたら、作家の柴崎友香さんが引退を惜しみながら「Baby Don’t Cry」を推していて、やっぱり作家はすごいなあと思いながらPVを見た。とてもよかった!

安室ちゃんが街をただ歩きながら歌っている映像で、歌詞がいいんです~。

 

 

そう だから Baby 悲しまないで 

考えてもわかんない時もあるって

散々でも前に続く道のどこかに

望みはあるから

雨の朝でも(Baby don’t cry)

愛が消えそうでも(Baby don’t cry)

一人になんてしないから(Baby don’t cry)

 

眠れない夜は何度も寝返りばかり

心細くなって吐き出すため息は深い

また抱えた不安 これ以上解消できず

誰かの手握って 見えない明日へ

つなごうと努力して

だってそうして人は何度でも

闇に立ち向かう強さあるはず

与えられて選ぶんじゃなくて

その足で踏み出して

 

 

いい歌だなー。安室ちゃんに言われると泣ける。

「考えてもわかんない時もある」かー。そうなんだ。やっぱりそうなんだ。

「一人にしない」と言ってくれるのがうれしい。

そんなことを思っていた。

 

それから一年の間に、

◍妹に安室ちゃんのラストライブに行った話をきいたり、

◍ライブDVDを観せられたり、

◍イモトの‟行ってQ”も観た(感動した。神との出会い。イモトは頭真っ白で「何の食べ物が好きですか?」って聞いてたのめちゃくちゃ共感した。好きすぎるとそうなる…そうなるんだよ。イモトの呆然としたまま発せられた「夢って叶うんですね」の問いも完璧だったし、安室ちゃんの「夢は叶います」のお答えも神過ぎた)し、

◍大阪で行われている安室奈美恵展に行く妹夫婦に同行した(途中まで)けど、

(…てか、けっこう安室経験積み重ねてるな!)、

まだ、「ただかわいくてすばらしい」というぐらいで、特別な感慨はなかった(にぶい)。

たぶん、じょじょに、じわじわ、醸成していったのだと思う。

 

8月の終わりにラストライブのDVDが出た。

もちろんライブに行き、DVDも買った妹が再三「これは絶対に観た方がいいよ!!」と、(私ならともかく)彼女にしては本当に珍しく、ものすごく強く言うので、半ば無理やりといった感じで貸し出され、東京公演の映像を観た。

それは本当にすばらしかった!!

 

ファイナルツアーの最終日ということも相まって、こっちとしてはすべての曲に「これが観客の前で歌う最後なのだろう」という感傷をこめて安室ちゃんを眺めた。

そう思うだけで、‟にわか中のにわか”のくせに泣けてくるのだから、安室ちゃん本人はいつ泣いてもおかしくなかった。

そしてそれぐらい画面に集中して聴き、見た時の、それぞれの歌のかわいらしさや、聴き手を元気づけようとする歌詞は、ただそれだけで泣けた。

安室ちゃんはこういう歌を歌ってきたのか、と知った。

 

ガールズとボーイズ各5~6人のキレキレダンサーをしたがえて、真っ赤なドレス「君臨」という感じで存在し、キレまくりの歌声とダンスで魅了した(「HERO」)の後は、

ピンクの衣装に着替えて一人で登場すると、「Baby Don’t Cry」を歌った。

ところどころ観客に手を振ったり、笑いかけたり、両手でハートを形作ったりして、みんなの、そして私のハートを撃ち抜いてきた。そのつど黄色い声が上がりそれに対して安室ちゃんが笑顔でで応え、こういうやりとりが会話のようですべてがしっくりとはまっていて感動的だった。

定番のやりとりのようにも見えたし、それこそ言葉以外の、完全に言葉を越えたやりとりだった。

そもそもこのライブの開始前の映像に、客席が映っている時からうすうす気付いていたけど(うかつにも今回初めて気付いたんだけど!)、女性のファンが多い! っていうかほとんど女性(に見える)! 

これってまさにシスターフッドの表象なんじゃないか……。

と気付いてまた泣。

安室ちゃんはこうやって女の人たちを助け、励まし、自分もまた連帯してきたのか……。

そういうことは全然語らず、ただ歌とダンスと存在と、ライブで示してきたってことか……。

全然知らなかった。

 

このことは、大きな希望で救いだなと思った。

そんな人を、妹が唯一みたいにして大好きで信奉しているのも大きな救いだと思った。

泣ける…書きながら泣けて仕方ないよ。ティッシュ持ってないよ……。

そういえば安室ちゃんは、イモトの時も、翁長知事に県民栄誉賞を授与されてお話したときも涙して、ティッシュでふいていたな。何かのインタビューでも泣いて、ティッシュだった。

 

でも安室ちゃんはラストライブで歌っている間、一度も泣かなかった。

プロっていうか、神って感じがした。

 

ソロの後、戻ってきたダンサーたちと、ステージに作られたピンクのビル群に上ったり下りたりしながら歌う 「Girl Talkと 「New Look」はかわいすぎた。

ボーイズチームとガールズチームは分かれてダンスしていて、安室ちゃんはガールズチームの一員でもあって、明らかにガールズはボーイズを翻弄していて(というかボーイズはガールズの引き立て役に徹する)観ていて安心というか、

つまり、女の人(安室ちゃん)がイニシアチブをとる舞台は、なんて平和でかわいくて、おかしな抑圧がなくていいんだ! 

それは、ただうっとりと観ていたらいいという空気に満ちていた。

かっこよくてかわいくて自立している。

べつにどっちがえらいというのでもなく、女性だけを尊重してくれというような主張とかではなく、ただ好きなことを好きな人たちと一緒に好きなだけ、普通にやっていられるということ。

そのことが現実社会ではとても難しく、ほとんど不可能な現状であるだけに、余計に憧れ、ただぼーっとみていた。

 

少しだけ宝塚歌劇団を思い出した。

舞台上の大階段とか、絶対的なトップがいる感じとか、ダンサーが囲んでいることとか、トップがほぼ常人には不可能な高さのヒールを履いて大階段で完璧に踊りまくるとかの、自分と同じ‟人”とは到底思えない感じ。

観客が投影するかわいさとカッコよさ(かわいさ強)を一身に引き受け、現実的にほぼ不可能なことを実現しているフィクション性。神っぽい感じ。

(初めて宝塚のことが良いと思った!)

これは夢中になるよな……。

 

というわけで、引退まで残り一週間。

週末のラジオの特別番組も聴いたし(リスナーからのお便り紹介全員女性wwみんな安室ちゃんに励まされていた~~)、NHKの朝のインタビューも見たし、着々と安室ちゃんを積み重ねています。

 

a walk in the parkも好き。

1997年当時の、若くてイケイケでちょっとカッコつけて長い髪をかき上げている97年安室ちゃんの映像をバックに、それに重ねるようにして、今安室ちゃんが全然邪魔じゃない髪型(おでこ全出し)のまま、わざと髪かき上げるしぐさするのめちゃくちゃかわいい。

お客さんが萌えてキャーキャー言うのも、お互いにわかってる感じでノンバーバル(非言語)空間がいい。みんなかわいい。

 

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ピンクのビル群の前で「Baby Don't Cry」と「Girl Talk」、「New Look」を歌うところ。顔は本当はもっとずっと小さいです。好きなものを大きく描いてしまう!

 

 

『ラプソディーとセレナーデ』(鷺沢朱理)感想【後編】~パワハラを歌に詠むこと~

『ラプソディーとセレナーデ』(鷺沢朱理)感想 【後編】

パワハラを歌に詠むこと~

やや乱暴なくくり方だけど、今回は「現代」をモチーフとした作品について取り上げま

す。

「現代」というか、現在? 

作品に使われている言葉はやはり古語ですが、こちらの方により親しみをおぼえる読者もいると思う!(私。)

 

「ハートとハート誰も揃はず職場にて〈神経衰弱〉しつつ日を終ふ」

「〈SAD〉略も鬱めく社会不安障害われの接客こはばる」

「クッキーと水の食事に使はざる箸を置くなどどうかしてゐる」

                          「水に書く言葉」より

PTSDフラッシュバックに怯えつつ受ける電話の五重敬語は」

「クレームは耳に残りし水のやう誰か取つてと喚けずにゐる」

「祖父に代はり手に持つ鍬の重かれどこのリハビリは効くよと祖母は」

                          「慈雨浴びて」より

 

(事態は深刻で、この他に、より切迫している歌もあり生々しく心を打つのだが、せっかくだから多くの人に手に取ってもらいたいと思い、各章(と言っていいのかな?)三首ずつと決めて選びました。)

 

〈SAD〉「鬱」PTSDなど、どきりとする言葉が続々登場する。

わずか三十一字の中でこれらの言葉は強烈な力を放ち、歌全体の印象に大きな影響を与えながら読者に重く迫る。

禍々しいのに、とても現実性があると思う。

 

「どきり」とするのは、私にとっても他人事ではないからである。

 

朱理さんと私の交流が復活したのはわずか数カ月前で、朱理さんから「近々歌集を上梓するから謹呈したい」とメールをもらったことがきっかけだった。

お互いにすごく簡単な近況を報告した際、それぞれ「パワハラ」に遭ったことがわかった。

ただ、これは誰が相手であっても言えることなのだが、正直なところ、私は詳しく話すことが面倒だった。

伝えるにはとんでもなく長いストーリーを話さなければいけないし、それは「その当時」でなければ意味がない気がした。

もっと言えば、話したことと引き換えに「その当時」、何かの行動が起こされなければまったく価値がなかった。

だから、今となっては私にとってその経験は、いずれ何らかの表現で復讐するつもりでいるというただそれだけのことだった。

 

そんな私にとって、誰かの、それも友人の「パワハラ」の表象はとても興味があった。

いや、そもそも、それ詠むんだ! と思った。

 

ページをめくり、真剣に読んだ。おもしろかった。

 

・「ハートとハート」が「揃」わない「職場」の「神経衰弱」とかうますぎて、人の作品なのにほくそ笑んだよ。

・〈SAD〉の表す「鬱め」いた英単語の意味とかも、

わかる! それ思いついちゃうしその後延々一人で渦巻くよね~、

という状況が頭の中で再現されたし、「どうかしてゐる」自分の行動の切り取りも、具体的で、哀しかった。

・「五重敬語」って何! って今会ったら一番に聞きたいし、待って待ってそれユーモアか幻聴かわからない怖いと思った。

・「誰か取つて」と「喚く」くことと、できないで「ゐる」ことはすべてが親和性があって痛々しく切なかった。

・「祖父」の存在は他の章で介護と看取りの経験が描かれており、もはや他人じゃなく感じているし、「祖母」の励ましは、そのいかにも「ばあちゃん」世代っぽい温かいユーモアに包まれていて泣かせる。

 

といったふうに、実にわが身に重ねて読んだ。

それを促すようなユーモアと哀しみに満ちていた。これは、作者の手腕と、短歌にすることによってある一定の距離感が生まれたことによるものだと思う。

 

私が自分の受けたパワハラを訴えなかったのは、味方にもなってくれなかった傍観者にゴシップに興じられるのが嫌だったからだ。

作品にしていないのも同じで、弱さをさらけ出すことには抵抗があった。

私は悪を糾弾したいのに、不要に責任を追及されたり無駄に傷付いたりするのは避けたかった。

つまり、「負けた」ことになるのが嫌だった。

自分が惨めでない方法で、(あまり信頼できるかどうかわからないけど)読者に対して、正しく発信したかった。

私はその方法が今もわからずに、手をこまねいている。こまっているのかもしれない。

 

ぜひ、本書を手に取って、歌の連なりを読み味わってほしいと思う。

時は流れ、歌も流れる。

進んだり止まったり振り返ったりまた戻ったりしながら、次に行くのだと思う。

私にはまだそれしか言えないけど、この歌集に励まされたことは多い。

 

本出したくなってきた!!

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8月に行ったイベントで作ったプラカード。「行動」が燃えてるw

 

murimurichan.hatenablog.com

 

『ラプソディーとセレナーデ』(鷺沢朱理)感想 【前編】

『ラプソディーとセレナーデ』(鷺沢朱理)感想 【前編】

   ~修辞法(押韻)、かわいい、を手掛かりに~

 

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八月の終わりに、友人から短歌集が届いた。

手の込んだ作品集で、手に持ったらずっしりと重く、人生が詰まっている気がした。

この夏はなんだかひたすらに悩んでいて全然浮上できなかったし、一人だとご飯を食べなかった。

私はそれを持って実家に帰った。

短歌についてまったくの素人の私に、古典文学をモチーフとした作品がわかる自信はほとんどなかった。

でも、この重みを受けて、自分で読んでみたいと思った。

 

◇最初の感想は、

豊かな〈言葉の繰り返し〉と〈押韻

ロマンチック(を好む)なイメージ

 

 

「おさへきれずある夜化(け)粧(は)ひて濃姫の屏風と語れり姫は語れり」

「夢に散るつらつら椿つらかりき黄泉も父兄殺し合ふ見て」

「瀲瀲(れんれん)と水にいろ溶き春の木々れんじやくは緋にせきれいは黄に」

 

個人的な好みの問題なのだが、私は修辞法やとりわけ押韻について懐疑的で、何とはなく恥ずかしさを覚えるため、自分にはうまく使える気がしないという使わず嫌いな面がある。

それが今回、朱理さんの短歌を読んで、その「懐疑」に、よい意味で確信を得たような気がしている。

つまり、

(その状況で)韻が踏めるなら結構余裕じゃーん! 

という(穿った)見方のことである。

(じゃーん! とか乱暴だなあ……。語彙が無くて申し訳ないよ。)

歌にするということは、その場面でのクライマックスであるということだと思うのだけど、その感情の高まりやカタルシスを、韻など、狙いすました、あるいは工夫を重ねた表現で彩る余裕があることが、私には気になってたまらない(心底を見抜きたいタイプ)。

それゆえに、作者がその場面を恣意的に切り取っているとはいえ、極限まで高まった瞬間の状態において、…いん…イン……何かないか探そ」みたいな、その冷静さ、我に返る際の客観性と、しかしそこには敢えて無自覚な点が、以前はどうしても看過できなかった。

それは、さらにそこに演出というか演技性のようなものを見出そうとしてしまうためかもしれない。

しかしそれらを見抜いてみた上で、かわいいな~と思ったのですこのたび。

それはほんとにまったく私の知る朱理さんそのものなのでした。

 

そこから手繰り寄せて考えてみた結果、次の結論にたどり着いた。

◆修辞を含めあらゆる手段を講じることは、(自分の)感情の高まりを再現し、あるいは創作し、それを効果的に魅せる手段の模索で、美に対するすばらしくストイックで忠実なふるまいなのかも。

◆どうしたら美しく見えるか試行錯誤し、その実行に命を懸けている姿に心を打たれる~。

(りゅうちぇるがよぎった~。美の方向性は違うかもしれないけどストイックさという点で重なる。)

 

自己陶酔(いい意味で)、自己憐憫(いい意味で)、ナルシシズム(いい意味で!!!)がそこここに顔を出し、隠れようともしていない、というのは、とても朱理さんらしいと思う。私も自己愛の強さに自覚があるだけに、こうも見せられると、自分が裸にされたようで恥ずかしくなりながら、追究のつもりで読み進めた。

 

情感高まった挙げ句、歌に没入していくことと短歌は相性がいいんだなということを、鷺沢短歌を読んで初めて実感する。小説と同じく、短歌においても、作者と作品は分けて語らなければならないのかどうか、素人の私にはわからないのだけど、この脇目もふらずに我が世界に入り込んでいく感じと、私の知る朱理さんのイメージは重なり、歌の中に自分を投影している……という言葉では飽き足らず、歌の中に自分の分身を作っているというか、歌そのものが朱理さんであるというか、それが歌の数だけ増幅しているような、そんな印象を持った。

鷺沢短歌に中てられて、知らぬ間に私も絢爛な表現になった(なってない?)。その感染力がある気がする……。

 

自己陶酔や没入はある種の恍惚をもたらし、傷ついた自分を慰撫する。作歌や生きることへの苦しみの中で、朱理さんが作歌に没入しながら自身を確認し、あるいは忘れ、理想を追求する中で新たな世界を発見し、自らを作り上げていく過程がここに表れているように思う。

◇ちょっと休憩☕

~高校古典授業における和歌のリアル~

 

この話をしても誰が喜ぶのかわからないけどよく書いてるしまあいいかということにして恥をさらすと、私は全然古典がわからなくて、古典作品に登場する和歌など、めっぽう苦手だった。

教員であった時、一応、『万葉集』など、高校で教えなければいけないとなった時はいつも指導書ガン見の上で授業に臨み、とりあえずその時間にはなるべく和歌に差し掛からないように授業していた。

和歌は、言うこと(修辞法)、やること(原文と現代語訳を黒板に書く)色々多くて、そんなマルチタスクをこなしながらさらに誰を指名して何を答えてもらったらいいのかは皆目見当がつかずただ混乱の極みだったから、願わくば授業開始直後の落ち着いた心理(私が)で「いざ!」と行いたかったし、もっと願わくばやらないまま通り過ぎたかった。無理だけど。

だから、「和歌は感情高まった時思いあまって作るのらしいよ~(知らんけど)」と説明しつつ、平気でその高まりをぶった切り、好きなタイミングで解説していた。

 

修辞法は、「枕詞」、「序詞」、「縁語」、「掛詞」、「本歌取り等々色々あってとにかくアップアップしていた。だって全然実感ないんだもん。

特に、縁語は完全雰囲気任せ だったから、ペアが二、三種類登場する超絶技巧を駆使した歌が出てきたらすぐ緊張。とりあえず部屋に存在するチョークを全色使いしてなんやかんや四角く囲い、あれやこれや線をつなげて図示する工夫、マイ技巧

私にできることはこれだけです~わからーんっていつも思っていた。

私がわからないのに生徒が縁語を発見できるはずもないので、完全教授型(私→生徒。……いや、指導書→私→生徒です!)で、たとえ私が間違えて板書しても誰も発見できないという地獄の空間の誕生

逆説的ですが私がいたのは立派な進学校で、つまりみんなテストのためにしっかり、かつ無駄なく暗記したいから、

(悲しいかな、修辞法なんて生徒からしたら「テストで出ることが容易に予測されるもの」でしかないのじゃ……)

間違ったことを板書するわけにはいかないという私一人にのみのしかる謎プレッシャー。

それもあって、教員時代は純粋に和歌を楽しむことは全くできなかったな。

◇マイ短歌経験を変えた!

 

ところがこのたび朱理さんの短歌を読んで、マイ短歌経験がすっかり変わった。

読みながら、掛詞はもちろん、これは縁語かな? とか思ったり思わなかったり、とても自由な中で気付き、味わうことがあり、すごく楽しかった。和歌の味わい方ってこれか~と思ったしだい。

つまり、知ってる人が作った歌を、ここ凝って作ったんじゃない? とか、工夫~~すごい~ごいす~wwwって思いながら、わかったりわからなかったりしつつ、楽しみながら読むこと。

読みながら、作者の人生や人物像と重なったり、はたまたその創作性を堪能したりしながら読むこと。

それは、決してその短歌に愛着を持っていない誰かに、周辺事情、修辞法、現代語訳、感情の高まりなど、知識としてまるっと教授されるようなものではないのだということ。(ごめんね高校生。)

(ただし、読み味わうためにはある程度の基礎知識は必要だから、何らかの方法でその手順を踏むのは必要。)

しかしそれにつけても、

自分の知っている人や友達が詠む歌の何と興味深く、どのようにしても知りたいと願うことよ。

当時の人たちの和歌の享受のしかたはまさにこんなふうだったのではないかと、何の調査もしていないのに勝手に確信し、堂々と書いてみた。

 

◇絵画的、感触的っていう魅力にも気づいた~

 

「絵画的」と言われたら、まさにそうだなと思った作品。

「かづらかづら絡む鬘(かつら)をさがしもとめ雨降る羅生門に昇りぬ」

「濃き髪ぞ悦(よろこ)ばしきや温し温し毟(むし)りては絡めからめては抜き」

 

この語の連なっていく感じは、長い髪を示しているようでもあるし、その髪に指を絡めている時のその指の触感というか、それを絵画→和歌に写したという印象。語感やリズムに乗ってゆけるし、その独特の恍惚感を共に味わっているような錯覚にも陥る。

第一、これまでの読書経験の中で『羅生門』の老婆の欲する鬘に、長い髪である感じを、感触としてまったく持っていなかったので、朱理さんの手にかかるとこんな感じか~という体験は、おもしろすぎました。

 

◇「かわいい」ひとです~

 

誤解を恐れずに言えば、自己愛の強さというのは、一般的に、現実世界では浮き立ってしまうところがあるというか自他ともに持て余すようなものだけど、短歌になり、また短歌集としてまとまった作品の数々を目の前に広げて見る段になると、朱理さんの多彩な面が様々に切り取られていてすごくいいなー、魅力的な人だなー、総じて、かわいいひとだな~~となったわけです。

 

「海の芸妓きみ案内せよシェルピンク、シュリンプピンクまばゆきピアス」

「パウダーブルー、光の粉を溶きし水面しばし見上げん海底の途に」

「パールサラダの桃いろ黄いろ碧いろ胸元かざり往き交へるひと」

 

この色彩センス。ネイル? ねえこれ、ネイルの色でしょ? 💅

これは、「海底洛中洛外図屏風」からの抜粋ですが(タイトルもかわいい。世界観かわいい。井上涼の作品『忍者と県立ギョカイ女子高校』に通じる。)、その中にはこんな歌もある。

 

「玉手箱製造工場ラインにてパートの沙魚(はぜ)らリボンの藻巻く」

かわいい~。リボン出てきた🎀 女子校を出た後のギョカイたちのことみたいだ~。

 

他にも、「シュピしゆパと」とか「プにぷニョ」とか「ハクハクと」とか、実験的な表現も散見される。これらもかわゆし~。

 

すぐれた作品は、読んだ後、読者に自分のことを語りたくさせるものだと思う。

我が身を振り返ったり、人生のある場面をふいに思い出させたりするような。(次回はこの辺りにもう少し踏み込んでみたいと思います~)

朱理さんの短歌は、入念な調査と豊富な知識が相互に担保し合い歌に厚みを持たせていて、書かれた言葉の後ろや周りに幽霊みたいにたくさんの景色や物語を感じる。考え、検討し尽くされていると思う。

信頼に足る書き手であり、詠み手だと感じる。                   

(続きま~す)

【緊急 助けてください!!】「大人が子どもを守ること」

今学校で起きている問題で、ある一人の高校生が苦しんでいます。

どうか、一緒に助けていただけませんか?

 

zubunogakkou.hatenablog.com

 

 

ずぶちゃんにNさんの話を聴いているうちに、しだいに私もNさんと直接やりとりをするようになりました。

 

Nさんと私はたぶんとてもよく似ていて、嘘がつけなくて、嫌なものは嫌で、無理なものは無理というタイプ。

別に相手を困らせたいわけではなくて、その場の(意図不明な)ルールや同調的な空気を重んじることよりも、自分の頭で考え判断する。

とりわけ、自分や他者が尊重されていないと感じると反発し、それが表にもでてしまう。

私もよく言われたけど(そして言われてもちっとも嬉しくないけど)、不器用で、誤解されやすく、損をするタイプ。本当は優しくて賢くてすばらしい人なのに、というやつ。笑。

 

昨日、Nさんが無事に卒業するためにはどうしたらいいか、一緒に考えている中で、私が感じたことを書きます。

 

ずぶちゃんの文章にあった通り、昨日はNさんは精神的に限界で、誰とも話したくない、話したら爆発してしまう、という状態だった。

私のメールに対しても、いつもの明るさや丁寧さ、ユーモアはなく、絶望を淡々と返してきた。

 

私は、Nさんが言う「死ぬこと」が怖かった。

だから、その場所(今の学校)でなくて、自分に合う場所でさえあれば、どれだけでも楽しく、いきいきと生きていくことができると思ってそれを言ったけど、

(他の世界で)「いきいき」生きていくことなど今の彼女には夢の世界すぎて、珍しく反発のような言葉が返ってきた。

 

切羽詰まっている相手に、「今の場所から逃げた方がいい」とか「世界は広い」という賢しらな助言は夢すぎて、におわせただけで苛立たせたのだとわかった。

私は自分を恥じた。

言った言葉は、全部自分に跳ね返ってくる。

 

かといって、死ぬことから目を逸らさせたくて出した空元気や不用意な提案を、

今さら謝るのも、相手を傷つけることがわかってできなかった。

 

全方位的に不安で苛立っている時は、味方になってくれるひとに対してこそ、その無力を責めるなどして当たってしまう。

他の、いくらでも存在しているまったくの傍観者には、逆に夢見たりするファンタジー。現実逃避。

現実が苛烈だからこそ、味方の精一杯の(でも無力な)尽力や寄り添いが、現状が八方ふさがりであることを知らしめてくるように感じ、ありがたく思う余裕を失って、無関係を決め込む傍観者に無限の期待を寄せる裏切り……、

みたいなことが私はたくさんあった。

急にヒーロー現れるのでは……とかさ。

 

瀕死の時には具体的なことしか耳に入ってこないものだ。

夢みたいな理想や敵の批判を言い募られても意味がない。

分析も共感も、余裕があるから聞けることだった。

第一、それはいつだって悦に入って滔々と説いている者の自己満足と発散にすぎない。

聴かされている方は、気を遣って、ただ聴いてくれているだけだ。

そのことを思い知らされた気がした。

 

私は、自分と同じ、たぶんそっくりな女の子の危機に対してまったく打つ手がなかった。

何を言おうとしても言う前から反論はまっさきに自分の中で浮かび、自分に返って来て、メールの文字を打っては消すということを繰り返していたら気持ち悪くなった。

自分=言葉だと、私は自分のことを思っていたらしい。

そのくせ、何も言葉が出てこない。

自分なんて、なんもないな、と思った。

 

何を言っても気休めでしかなく、挙げてみた具体的な対策はそこが知れていた。私の経験の少なさから出てくるなけなしの解決策はまったく役に立たなかった。

 

でも、私によく似た女の子は、私ではなかった。

これまで何度も人に話し、考え、実行してきた、学校に何とかとどまり卒業までやり過ごすための様々な対策を、もう何人目かになる私に話すことを厭わず、おそらく自問自答も入れたら何万回目かになるような、私の馬鹿みたいな質問にも答えていた。

機嫌の悪い自分を引きずらず、会話をして、自分でできることは自分でしようとしていた。

 

このやりとりに緊張し、あらゆる覚悟が試されているのは私の方だった。

 

今までの自分や、どうしても譲れなかったこと、これからも大事にしたいと思っていることを、今ここでちゃんと守ることができるのか。

言うだけじゃなくて、実際に行動に移せるのか。

 

子どもを守るっていうのは、こんなにも命懸けのことなのか。

下手でも、持ち駒が無くても、無力を突きつけられてもぐちゃぐちゃでぼろぼろでも、さらけ出してやるしかないんだ。怖い。

でも、そうじゃないとNさんは死んでしまう。

これは彼女の問題じゃなくて、まるっきり私の問題だった。

 

この日に私が提案したのは主に病院の診断書のことだった。

診断書が出れば、少しは考慮されるのではないかと思った。

勤めていた高校では、三年生になってからでも長期で休む生徒が時々いたから。それでも卒業できていたから。

しかし、診断書は、高校という出席が重視される世界ではほとんど効力が無いらしい。

休みは、総授業時間数の1/3しか認められない。少しの休暇や、心身を休める時間すら許されていない。

(後から、何人かの現役高校教師の友人にも確かめたけど、その基準はおおむねどの学校でも変わらないようだった。)

 

退学を勧めるのは簡単だ。そのほうが彼女にとって良いと私も思う。

自分を損なったり傷つけようとする危険な場所からは、いち早く逃げるのが一番いい。

 

でも、大人が子どもを守るための行動を何もしないままでいることが、さらに、そしてもっとも彼女を傷つけているのだと私は思う。

間違ったことや、大人自身も嫌だと思っていることを、「でもこれが社会だから」と教え、子どもに諦めさせ、従わせようとしたり、傍観しているのは子どもを殺すことだと思う。

結果はどうであったとしても、大人が「おかしい」と言って一緒に戦ってくれることが彼女を救う。これからの希望になる。

信頼できる大人がいるということが、彼女にとってもっとも大事なことなのだと思う。たぶん、彼女だけじゃなくて、みんなにとって。

 

彼女は私に何度も、「こんな見ず知らずの高校生のためにいっぱい考えてくれて助けてくれてありがとう」と言った。

私は何もできてないのに。

でも、一人じゃないことが大事で、救いなのだと思う。

あなたは間違ってないと言ってくれる人がいることが救いになるのだと思う。

 

どうか、彼女が希望を持って生きることができるように、一緒に、おかしいことに対して「おかしい」と声をあげてもらえませんか。

 

もし賛同していただけるならば、上に添付しているずぶちゃんの日記と共に、この文章を広めることに協力してくださったら、とてもありがたいです。

どうぞよろしくお願いします。

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