寺尾紗穂さんのライブ 祖父のこと、亡くした人たちのこと
生き死ににまつわることに関するとすぐに泣いてしまう。
古くは23か24才の大学院生の時、祖父が亡くなって、葬儀で私はひとりで大泣きしていた。
周りが引くぐらい。
呆れて伯父に「おい大丈夫か」といわれるぐらい。(これはとても冷たいと思った。)
それでわれに返ったけど、泣くのをやめることはできなかった。
あこがれていて、好きなじいちゃんではあったけど、そんなに仲が良かったかと言われるとそれほど近い間柄でもなく、「たいていの大人になった女の孫と祖父の距離感の平均」……と書きかけてふと、年上の従姉妹たちのことを思い出したら彼女たちは私よりはるかに親し気に接していたし(彼女たちの明るさ!)、祖父の認識もそうだったと思う。
でも、退職後に趣味のカメラを持って興味の赴くまま外国も含め飛び回り、
仲間としばしばグループ展を開いていた姿は私にとってあこがれで自慢だった。
年を重ねるごとに、「次は高校だね」、「来年大学受験だよね、がんばってね」、「就職しなくちゃね」といった普通のことを言ってくる他の親戚と違い、
祖父は事あるごとに「好きなことをしたらいい」と言った(孫全員に言っていたとは思うけど)。
それは、小さい時からずっと「好きなことをしたい(書く人になりたい)」とひそかに思っていた私にとってやっぱりあこがれの姿で(孫にそんなことを言うおじいちゃんになりたい)、救いのような存在だった。
今思えば、他の人々がせっせと常識的な声かけ(「めぐちゃんも来年は受験生だね!」)をしていたからこそ、祖父は自由に好きなことを孫に言うことができたのかもしれない。
あるいはその反発か。そうだったらいいなと思う。
そこらへんのことは私にはわからない。今だったら聞けたのになとか思う。
祖父の葬式で、自分のほうが死ぬんじゃないかっていうほど泣いたのにはもうひとつ訳がある。
それは、私にはお見舞いや、病院に通う母や伯母の手伝いにあまり参加しなかった負い目があったからだった。
なんで病院に行かなかったかというとあまり理由は無くて、ただ自分のことを優先していただけだ。病院は手持ち無沙汰で、見るたびに痩せてゆく祖父の姿は悲しかった。
「今日、〇〇ちゃんが病院に来てくれたよ」と母から従姉妹たちの動向を聞くにつけても私はただ罪悪感をつのらせるばかりだった。
そんなわけで、ほとんど初めて遭遇する「親しい人の死」ということもあり、対処不能で気持ち悪いぐらい泣いていたという思い出。
「祖父の葬式で今日は授業を休んでいる」と人伝に聞いたタイ人の友達が私に送ってくれた、「魂をあまりにも失わないでください」というメールは今でもよく覚えている。
私があんなふうに「泣き女」(台湾とかでお葬式にやって来る『泣き職』専門の人)と化しているなんて知らなかったはずなのにすごいなあと思ったし、
(喪失の)悲しみに暮れる人を絶対に放っておかないやさしさというか彼女のポリシーのようなものはその時からずっと変わっていなくて、私は今も支えられているのだと思う。
寺尾紗穂さんのライブは、喪失や孤独をともに味わうような時間だった。
耳にきこえてきたどの言葉を拾い上げても、私の頭は「人との究極的な別れ(=死)」を連想して泣いてしまうのだった。
◇最後に会えないまま別れた人たちのことを歌った歌は、友達と友達のばあちゃんのことだと思った。
◇「あの日、ぼくは死ぬよといって そして今生きてる」という歌詞には、自分や、今も死を意識して生きている何人もの友達を重ねた。
◇「愛のかけらをひとつずつ拾う私のたよりなさ」という言葉には、自分や、そうやって言いそうな友達の顔を浮かべた。
一緒にライブに行った友達が、寺尾さんの本(『彗星の孤独』)を読んで
「迷っても、途中で変わってもいいって言ってくれているように思った」
と言っていたことを思い出した。
◇「あなたの骨壺持ちたかった」という歌詞には、ばあちゃんの骨壺を作ろうとした友達のことを思った。それから、喪主になりたい自分のことも。
合間のお話の中で、一年前に亡くなった寺尾さんのお父さんと、家族と絶縁してそして死んでしまった男性のことが語られた。
寺尾さんは、「みんな孤独だけど、誰も完全な孤独の中で生きていくことはできない」と言った。
どの歌か忘れてしまったのだけど、ついには、昨日や今朝名古屋で会って別れてきた家族たちのことが思い浮かびながら泣き、ここまでくると自分でもさすがにやりすぎだなと思った。
みずから泣きに行っているし、これ(家族を思い出す)に関しては「悲しみ」とは違う感情で、そういう家族に関する‟充実“みたいな感じ方はすごく恥ずかしいと思ったから。
(でもやっぱり今は家族のことがとても好きなので、そういう感情を許してもまあいいのかなとも思う。)
美しく、迫力のある声と、ピアノにも泣き、言葉じゃないんだなとやっぱりやっと思った。
わからないことやどうしようもないことについて歌っているのかもしれない。
言葉にするとまた違ってきてしまうのかもしれないけれど。
よく泣いた一夜でした。これを書きながらまた泣いているんだけど。
🔘寺尾紗穂「迷う」、「いくつもの」、「骨壺」、「あの日」、「楕円の夢」、「たよりないもののために」、「何にもいらない」を聴きながら書きました。
memo✎
・言葉とは限らないのだということ
・相手との共通の言語、チャンネル
・求めているから得られるということ
・書いたことしか覚えていないのかもしれない/書くとそれ以外のことを忘れてしまう
本を持って友達に会いに行く旅🐈その①
昨日妹と電話で話していて、妹に私についてわりとひどい言いようをされたから(忘れたけど)、「それ言われて私が傷付くと思わんのー?」とへらへらしながら言ったら、「だって今あなた元気だから何言われても平気でしょ?」と返ってきて驚いた。
「えーそんなことわかるの?」と言ったら、「わかるよそのぐらい。ダメなときはダメってわかるからそんなこと言わないし」と言われてへえー! となった。
へえーとなったのは二つ理由があって、一つは、「私が元気である」と妹が思っている(知っている)ということと、もう一つは、妹が私の調子をよく見ているということだった。ほえーーーっ。
たしかに、私は今けっこう元気なのだった。(変だな。)
GWに本を持って友達に会いに行き、たくさんお話をして、それぞれのお話がすべて深くて初めて聴くようなことばかりで、まさに黄金週間だったなあ……とぽーっとして家に帰ってきたら、しばらく会っていなかった友達がポストに出版のお祝いのプレゼントを届けてくれていた。
(仕事や結婚や出産や、互いの状況の相違によって失った)「友達をとりもどす」というのはこういうことなのかもしれないと思ってきている。
なかには私のほうが手放してしまった縁なのにもう一度つなごうとしてもらったりすることもあってありがたく、すみません。ありがとうすみません、すみません……。
私がセクハラ・パワハラの話を書いていることもあって、会いに行った人々の中には自分の受けたハラスメントの話をしてくれる人もいた。
私みたいに出勤を拒否した人も、耐え続けていれば食うに困らずそれなりに安定的な仕事やポジションが得られたはずの人もいた。
その人は、ついに日本中を転職先の候補とするに至り、着々と応募していた。
それを見て私はまた、どこにでもいける自由を感じた。
あるいは、おしりを触られた瞬間相手を殴って会社を辞めた人もいて、
「何年も前の話で、今とは時代も違ったけどね」と笑って言うその人を、
私はまるで英雄を見るような気持ちで見つめた。
その会社も時代も、今だってクソすぎるけど、そんなことは関係なくその人自身がカッコよすぎた。そして本当に、「そんなことは関係ない」のだろうと思った。状況がクソであろうと平穏であろうと、行動する人はいつだって変わら(変われ)なくてその人のままであるのだと思う。そうでしかいられないっていうか。
そのことが、私はずっとつらかった。そんなのは自分か、周りのわずかな友達だけだと思っていたから。
でも、「自分だけじゃない」ということに幻でない手ごたえを感じて、私はしみじみとうれしかった。
私の話を聴いて、「かわいそうやったなあー」と言ってくれる人もいた。
「我慢すべきである」とか「無責任だ」とか、「働くというのは理不尽なことにも従うことだ」と言う人は一人もいなくて、そのことに私は慰められた。
まるで慰撫の旅を続けているような感じだ。
勤めていた学校の校長も教頭も、傍観者を含むその他の人々からも何もなかったけど(優しくしてくれた同僚=友達はいました❤)、
昔の友達やあたらしい友達が、まるでその代わりをするかのように私を慰めてくれている。すごく自分に都合のよいとらえ方だけど、不思議と私にはそうであるとしか思えない流れ方をしているのだった。
「快晴」に改元して本を出したら、どんどんあたらしく変わっていっている。
へらへらして、大好きな不動産屋さんの話をしながらわけもなく「おもしろいね」と繰り返す私に、妹は呆れ気味に「で、なんで電話してるんだっけ」と言った。
だってハンカチがないからさ!!(小説『夫のちんぽが入らない』感想文』)
ハンカチを忘れた日は最悪で生きていくことができないから、忘れたらコンビニで買うし、万が一職場に着いてから気付いたら友達に相談して予備を貸してもらっていた。
それからは真似して予備のかわいいやつを机の中に入れておくようになった。
仕事をやめて職場がなくなっても、私のハンカチへの意識(執着)は変わらなかった。
けど、いつも行く場所が決まっているわけじゃないからそれは死活問題のひとつになった。
GWの名古屋に帰る日は、マンションのエレベーターを降りた瞬間にハンカチを忘れたことに気が付いたけど、珍しく近鉄で帰る予定でこれから難波に向かうことと、そのうえ神戸や梅田と比べて格段に不案内な難波で格安チケット店にたどり着かなければいけない(しかも20分以内で)というミッション、ただでさえすでに難波行きの電車にギリギリの時間ということも手伝って、私はすべてを振り切って駆け出した。
無事に最初の電車に乗ることができ、計画通りに難波の格安チケット店で450円OFFで乗車券も手に入れて、朝兼お昼ごはんも買ってアーバンライナーに乗った。
「家に帰るまでトイレには行かない!」と、ハンカチを忘れた瞬間に決めたことは守れるはずもなく、一縷の望みをかけて行ったアーバンライナーの洗面所には、なんと個包装のおしぼりが用意されていて神様近鉄様ありがとう😃
座席に戻り、お茶を飲もうお菓子食べよう♪♪と探ったファミマのビニール袋にはお手拭きが入っていて、スゴーイですねニッポン万歳!
こういうとこが好きです~🙌
ハンカチ問題が解消してしまえば、それ以外には何も問題が無かった。
その前の日は、連日の外出にはしゃぎすぎた反動で久しぶりにナマコ(1日中寝たきり)でいたために、帰省する当日(つまり本日)の朝にすべての自分の世話が一極集中して、朝から髪染める(ピンク)、シンクに溜めていた洗い物、洗濯、風呂、化粧、帰省荷物パッキング、洗濯物乾かす(自力…持って帰りたいから)、部屋中のゴミ収集、合間にメール返信、、、とかなんか大わらわだったことも、今となっては嘘みたいな平穏ぶりだった。
よかった…。なんかよくわからないけど間に合った…。
数えるほどしか乗ったことのない近鉄特急から見える景色は物珍しく、山や田んぼや時々渡っていく橋がひとつずつ見逃せなかった。
最初から隣の席に人が居たことも、私に身じろぎせずただ車窓を凝視する姿勢を保たせた。
…つまり、まあなんとなく窮屈なのだった!
難波から名古屋まで「2時間10分で3500円」は私の中では最速最安値で、いつも梅田から3時間以上もバスに乗っていることを思うと明らかに快適なのにもかかわらず、時間がたつのが遅く感じられ、代わり映えのしないように見える景色にもしだいに飽きてきていた。
うまく眠ることもできないのはやっぱり隣に人が居るためで、お互いになんとなく気を使って身を縮め合いそれぞれのシートにおさまっていることはわかっていても、私としては知らない誰か(しかも男性)が居ることによる緊張を完全に拭うことはできないのだった。
再発している腰痛も思っていた以上に深刻だった。朝から1日分以上のはたらきをしてきたことも、今ごろになってひびいてきていた。
気を紛らわせようと、本を取り出した。
途中でしんどくなって読むのをやめていたエッセイに近い小説で、矛盾していると思われるかもしれないけど、私はいつでもどんな時でも夢中になってその続きを読むことができる! と確信していた作品だった。
少し前に話題になった本で、タイトルは『夫のちんぽが入らない』(講談社)。
私はセンセーショナルな題名に興味しんしんで、いつか読んでみたいと思っていたのを文庫版を発見し、買ったものだった。
作者はこだまさんという女性で、元小学校の教員だった。
私よりも上の世代の人で、時代による特徴はちょいちょい出てくるものの、「古い」とはまったく思わなかった。
内容はタイトルの通りで、現実のなかでは誰にも話せないまま、文章でそのことが悲しいユーモアを交えて語られていく。
並行して、主人公(こだまさん)は異動先の小学校で荒れまくっているクラスの担任になり、生徒によってほぼいじめとも思えるような目に遭うことや、それに一人で耐えること、しだいに心身に不調をきたしていくことが淡々と語られていった。
主人公は誰のことも責めない。
ただ自分だけを責めていく。
誰にも言えない秘密(悩み)を抱え、自分を「不完全」と思うことから解放されることがなく、その途中途中で自分の親や周囲から「子どもは?」と悪意なく(!!)聞かれる。
主人公は病気になり仕事をやめる。
するとあんなに関係がうまくいかなかったクラスの子どもたちが寄ってきて泣いたり、やめないでと言ったり、やめた後には家に遊びに来たりするようになる。
この後の、一人の少女とのやりとりに私は号泣した。
こだまさんは、受け皿っていうかすごい受けとめをしている(本人はそんなふうに思っていない)と思う。
その後もずっと目が離せない展開が続く。
夫とは兄妹のような関係であることや、「子どもができなくてすみません」と夫の実家に謝りにいこうと言う母に連れられて電車に乗り、もてなされた高級な鮨を涙をこらえるように次々に呑み込んだこと、母へのわだかまりを持ち続けていることと年老いて丸くなった(他のきょうだいにより、孫も産まれた)親へ思うこと、自分自身と重なる部分……。
こだまさんは、ひとつずつ、自分で考えたりかえりみたりしながら進んでいる人だと感じた。それで、自分を苦しくさせてくるものに対しても一概に「古い」と一蹴したり、怒ったりすることもできないようだった。
だから苦しむのだが、そのひとつずつが丁寧で誠実だった。
「こうなるしかなかったからこうしている」というようなことを(ほんの少し自嘲?をふくめて)書いていたけど(とくに正規の教員をやめて、期間限定の教員という形態をつなぎながらやっていることについて)、決められた型にはまった形でなく、自分のやり方というものを自分でさぐって見つけた結果のものだなというふうに私には見えた。
そのいろいろなことが自分と重なったし、私はこだまさんをとても魅力的な人だと思った。
同時に、私の本を読んでくれたある人が、「どこまでも人や自分に誠実にあろうとする姿に『ぐっ』ときました」と感想を書いてくれたことを思い出した。
私のことを知らない人が、時々私自身でさえもて余し困ってしまう私をみとめ、いいと言ってくれることがある。それを伝えてもくれる。ずっとひとりか、わずかな理解者しかいないと思っていたのに、こんなことがあるのかなと思う。
こだまさんもそうだったのかもしれない。書きながら、生きながらそうだったのかもしれない。
そう思うと泣けて泣けてしかたがなかった。
近鉄で出はじめた涙は、名古屋に着いて一度止まり(乗り換えのため)、実家に向かう電車でふたたびあふれた。
通路をはさんだ向かいに座った親子らしき人たちにはさぞ奇異に映っているだろうと思いながらも止めることができなかった。涙が透明で本当によかったとこのときほど思ったことはないし、どうしようもなくて目をつむり、まぶたってガーゼみたいなナプキンみたいな役割なんだなと初めて思った瞬間にもうじわっと目の隙間からにじみ出ていて、あ、ぜんぜん違ったみたい…と思った。
だってハンカチがないからさ!!!
ということを、とにかくいちばん実感したのがトイレでも、昼ごはんを食べるときでもなく、泣くときだったというお話。
いつでもどこでも泣くんだからいつもハンカチは持ってなくちゃダメっていう教訓でした🌼
出版記念お話会②第一部🍎
開始時間になったけどまだ準備していたら、あたらしいお客さんがやってきた。
Y先生だった。去年のお話会にも来てくれた、前々職場の同僚で、現親友。
先生はうちに遊びに来たり、私のブログも読んでくれていて、12月に手紙をくれた。
その中で、
「いつか本出しなよ。私買うよ」と書いてくれたから私は本を出そうと思ったのだった。
クッキーを飾り終わった後、お花係に任命された妹は階段の下でY先生に出くわして、
反射的に「あ、写真で見た人!」と言っている。
初対面の相手にそんなこと言わない子なのに!
うれしかったらしい。
これまでの数々の私の話に出てきた人々が実際に次々と目の前に登場して動いてしゃべっていて、想像と一緒だったり違ったりしていておもしろいみたい。
Y先生はまったく動じずに挨拶して、「今朝テレビが壊れてさー、買いに行ってたからお昼食べてないんだけど食べてもいい?」と言い、勝手知ったる風情でスタッフルームに消えていった。
なんとか準備ができたので、みんなを2階の会場に呼んだ。
身内(スタッフと家族)以外はY先生しか居なくて、先生はもう身内だからつまりこれは身内の会だった。
足りていることよりも不足を見つけくよくよする性格の私は、頭の中で、「行きたいけど行けないけど本を買いたいです!」とメッセージを送ってくれた人々の顔を蘇らせながら、自分で自分に「落ち込まないこと!」と心の中で言ってスタートした。
お話会は第一部と第二部に分けていた。
第一部は「本の紹介」をし、第二部では「対談」をしたいと考えていた。
これは、教員時代の晩年に生まれ、辞めてからとみに高まった嗜好なのだが、
私はどうしても自分が既に知っていることを話す(報告や説明をする)ことに抵抗があって、
そんな台本をなぞるだけのようなことはとても恥ずかしくてできない気がしていた。
みんなにとっては初めて聴くことでも、聴いている人の中には喋っている私もいて
(自分で喋りながら自分の話を聴いているから)、
その私が人々に向かって自分の本の説明をしたとしたら、すぐにもう一人の私が、
【いやいやいや、しらこい顔して初めて言いますみたいに喋ってるけど自分何回頭の中で考えつくしてんねん、てか文章にも書いて本にまでしとるがな。本に書いたことと同じこと喋ってたら、それ来てもらう意味あるん?】
と(謎の関西弁)すぐにツッコんでくるので恥ずかしくてできない、という気がした。
でもみんなは本の内容を知らないわけだから、「説明」は必要。
だから、第一部は〈私が知っていることを人々に話す時間〉にして、第二部は〈私も知らないこと(わからないこと)を話す時間〉にしようと思いついた。
それで人々にも応えられる気がするし、私の欲求も満たされる。
第一部が始まった。
≪第一部は収録をして後日ラジオのアプリを使って放送するつもりにしていた。≫
最初にこの本を作ることにした経緯として、『快晴元年のアップルパイ』というタイトルの説明をした。
実はそのことは、本の「まえがき」にも書いており、ありがたいことにみんな着いてすぐに本を買ってくれたから、教科書的に「〇〇ページの……」と言えば済んだし、それはそれで学校ごっこみたいで楽しかった。
タイトルの話はすぐに終わった。
発端が悲しい話だし(笑)、始めてみたら、この被害(セクハラ・パワハラ)の話をどんな顔でこのやさしい人たちにしたらいいのじゃ……? と思った。被害の話をする難しさに(もう立ち直っているのに)直面したし、そのことを、今この人たちにしたいわけじゃないと即座に思った。
それで、思い付きで、
・「本当は本を出すなら出版社から出したかったし、出すものだと思っていたし、その前に何かの文学賞を受賞して華々しくデビューしていたかったしそうするものだと思っていたけど、実際は応募すらしていなくて自費出版であるということ」と、
・「自費出版(って打とうとしたら『自慰出版』って出たw。それやな。自慰。自分で慰めてる。大事なことだよ)なんて、そりゃお金さえ出したら誰でもできることで、なんかそんなのってやっぱ王道じゃないし、何だかなーって思っていたこと」と、
・「でもこうして形にしてみるとやっぱりうれしくて、やってみてよかったと思っていること」
を話した。
(この文章は、このとき収録したラジオ(実際の会の録音)を聴いて比べるとだいぶ違うかもしれない……笑。私は恥ずかしくてラジオは聴いていなくてよくわからない。どちらも「本物」で「嘘」だと思ってください。こちらは脚色。希望も入れた物語です~。)
自分でも、こんなことを言うのか~と思いながら話した。
言いたいことはこのことだったみたいだ。知らなかった。
誰にも言っていなかったから、たいていのことは話してきた編集長も、部屋の遠くの方で「そうだったの?」という顔で聴いているのが視界の端っこに見えた。
それで、これは成功だ! と自分でも気に入った。
用意していなかった「知らないこと」がその時に起きるのがものすごい奇跡的なギフトだと思う(急に)。
これは、その時そこにいた人たちと、その日の雰囲気が引き出したものだと思った。
それから、みんなをみんなに紹介した。
私としては、妹の夫のY君のことをぜひ言いたくて、この正月に実家で行った新年の句会の話をした。
それは、私の提案で、母、妹、Y君、私の4人で句会(自作の俳句を持ち寄り、発表する)をやった時のことだった。
急に「句会をやろう!」なんて予告したけど、困らせるかなーとか、断られるかもと思っていた。
私の急な思い付きに振り回されることに慣れているのは、母と妹までのはずだった。
しかし、Y君は句を考えて来てくれて、結果的に私と競うぐらいたくさんの数の句を詠み、言った言葉が私を喜ばせた。
「なんか次々出てくるんですよね……^^」
すばらしい!!
今日来てくれたこともそうだし、こうしていつも巻き込んだことに参加してくれる。
ありがとうだよ。
私は満足して、司会を一穂君に交代した。
彼もみんなと同じで私の本を読んでいないし、本のことも、最近の私のことも何も知らないから、みんなを代表して、知らないことを私に尋ねてくれたらいいと思った。
書き続けていたら疲れちゃったからみなさんも少しきゅうけいしてね。
なんかいいことを聞いてくれたような気がするけど、忘れちゃったこともある。
あ、そうだ。
「『この一年間に書いていた文章を、本にまとめた』と先生は言っていたけど、本に入れる文章はどうやって選んだんですか?」だ。
すばらしいね。いい質問。喋りたかったことだった。
この質問のおかげで、本の前半と後半では文体が違っていること、
・前半は‟ブログ調”で浮かれていたし、実際浮かれてもいてそういう文体なのだけど、
・後半は悩み始めるので深刻で、とにかくすごい悩んでるし思い詰めています。
ということが言えた。みんなも笑って聴いていてくれる。
さらに一穂君に、
「先生は悩んでいたんですね。どういうことに悩んでいたんですか?」
って聞かれたような。聞かれたっけ。
「孤独についてです」って答えたっけ。
「先生は悩んでいたんですね」ということを一穂君に言われて、彼が高校生の当時からずっと私は自分の悩みを教室の生徒たちの前で話してきたことを懐かしく思い出し、ポーッとしてしまった。
(彼はまったく普通にしている。)
なんじゃこりゃ~。ひとりで過去と今を行き来しているみたいだ。
「私の悩み」について、昔も今も一緒に話してくれている。こんなことは願っても起こらないことのような気がする。なんだろう。みんなを巻き込んでの……プレイ?
ありがとう。すみません。ありがとう。
泣。
孤独であること、自分の文章はだれにもわかられないこと、一体誰がわかるん? みんな文章読めるの? とさえ思っていたし悩んでいたことを告白して、でも本を作ってみたら友達がたくさん出て来て、自分には友達がいることがわかった。友達いるやん! ってなった、ということも、みんな聴いてくれていた。
一穂君が、「聞こうとしてたことはみんなもう先生が話した」と言ったから、
彼の自己紹介につなげて私が彼の話をして、みんなでこのすばらしい青年に感心し、にこにこした。
続いて、スタッフの紹介をした。
編集をしてくれたみさきさんについては、「ちからわざ」(by 佐藤二朗)というお気に入りの言葉を紹介した。
みさきさんは、「経験があるから」とか、「できるから」とか、「得意だから」っていうわけじゃなくて、「やりたいからやる」ことを体現している人で、今回の編集もそのひとつであり、「やりたい!」と手を挙げてくれたから一緒にやって、よい本ができたのだった。
「できる」わけじゃないから失敗やミスもあり、時間配分がわからずに、
締め切り前の3日間は修羅場だったことや、
48時間不眠不休で、まるで飛行機に乗って外国に向かっている(乗ったらもう完結するまで降りられない!)ようだったことや、
これ(お話会)があるから絶対に間に合わせないといけない、お話会に本がないというのはあり得ないと思って必死でした、
という話をしてくれて私はまたひそかに泣。
あの時期に、みさきさんにかかっていたプレッシャーは半端じゃなく大きかったと思う。
私はその期間も家に帰れば寝ていたし、パソコンの電源を求めて一緒に籠った各地のタリーズでもどこかふわふわとしていた。
文章と挿絵をみさきさんに渡したからひと仕事済んだ感が、隣で必死のパッチにパソコンを駆使しているみさきさんにバレてないといいなと思っていた。
印刷会社の人には、最初の入稿→見本印刷→確認して、もしこちらの誤字や脱字が無くてノーミス→本印刷 だったら、「1ページあたり50円値引きしてくれる」と聞いていて、私たちはそれをねらったことや、「50円×330ページ=16,500円のディスカウントは大きい!」と私は忘れてしまう細かい金額を発表してくれてみんなでおおおーーー!✨となる。
実際は私のミスがあって、結局完成品に手書きで修正しているのだけど、
さらにその手書きの修正さえも間違えてしまった・・・!! というスカポンタンな一冊もあり、私は、
「これは母の分にしよう!」
と特に疑問なく口に出していたところ、そのとき一緒に作業していた友達に、
「え!? 自分の分にしなよ!」と言われ、あ、そうなんだと思ってそうすることにした、という話もした。
ね? だから私一人だと母を加害する(いじめる)し、妹は母にも優しいからいいんだけど、家に家族だけが居ると煮詰まるしつらいし、友達が母に優しくしてくれるからうれしくてありがたいし、こうやって私の代わりに母に優しくしてもらおうと考えているのです~~。
と言ったら母は大きくうなずいていて、みんなが笑った。
つづいて、こにーちゃんを紹介した。
こにーちゃんには、私が自分でも「どうしたいのか」(本を出したいのかどうか)という意志もわからないでいた頃に、絵を描いてもらうようにお願いした。
私がこにーちゃんの絵が好きだったから。
こにーちゃんの絵の中の、物を言う人や動物が好き。
こにーちゃんが私の文章や話したことなどからイメージを膨らませてくれて絵を描いてくれたのが嬉しくて、その絵が本当にすばらしくてかわいくてすばらしいのだということを言った。(ちゃんと言えたかな???)
快晴のブルーも、二人組というところも、一緒に商店街かもしれないアーチをくぐろうとしているところも、一人じゃないところも、そのうちの一人が後ろを振り返り振り返り歩いていることも、それは私かなと思ったことも言った。(言えたかな???)
(また泣いている。)
その後にこにーちゃんがしてくれたのは、
そんなふうなオーダー(全部おまかせ)のされ方は初めてだったことや、やってみてとてもよかったということ、私が好きだと挙げた絵の中のポイント(絵を見た後に、こにーちゃんに手紙を書いた)が全部自分がそうしようと思って入れた部分でそのことを見てくれてうれしかったということ、実は最初に描いていた絵は「二人組」じゃなくて「一人」で、場所も「外」ではなくて「部屋の中」だったけど、考え直してあたらしく描いたのだというお話。
うれしいことばかりだった。全部、心のこもった丁寧な仕事だと思った。
〈第一部終了〉
出版記念お話会①(まだ始まらない)
お話会が終わったので、その話を書きます。
本にしてみてわかったのは、私は過去のことについて、「書いたことしか覚えていない」ということで、そのことは少し心配になる。
(私にとっての)「クライマックス」のシーンを書こうということと、忘れたくないあれもこれもを書いて、「ありがとう」を書いて、でもその辺りは自分でも頭の中で何回も再生しているからもう物語にもなっていてそれを書き留めていく。
そうすると、書いていないことが出てくる。そしてそのことを私は忘れてしまうのだ。
書いて捨てて忘れていきたいのに、忘れたくなくて、書いていないことも知りたいと思う。このことが全部同じぐらいの割合で存在している。
みんなもそうなのかな?
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卒業の文章🌸
あたらしく通った学校の卒業にあたって、
そのこととこの一年間について書いてみました。
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私の愛想の悪さは筋金入りで、笑うことができなくて、
人には、
「めぐみんは不器用すぎて損してる!」とか
「潔癖…ですよね」とさんざん言われてきたし、
自分でも太宰治の『カチカチ山』の兎って思う。
傍観者にはニヤニヤと揶揄されてきた(これがいちばんムカつく)。
この1年の間に、学校の内外であたらしい友達ができたり、
そうかと思ったら私が一人で深く思い入れすぎていたり、
「潔癖」な私にはどうしても譲れない一線を相手が踏んでいる姿を見て
(勝手に)裏切られたような気になったりして、大忙しだった。
つまり年中失恋していたというわけだった。
かつて、「戦場カメラマン」にたとえられたこともあった。
これはとても気に入っている。
いつも丸腰で、すぐに戦場におもむいていく。
自分の弱さ (…「強さ」ではないのが特徴。できないと思うことが多い)と、
積み重ねた戦場経験によって獲得した人権感覚だけを頼りに突入し、
ルポ(報道)のつもりでいる・・・・・・
くせについ断罪 ( 「許せない😤‼️」 )。
してしまうからいつも砕け散っている。
「10かゼロか」でしか生きられない自分を、自分でも持て余していた。
でも、ゆずれないものはゆずれないのだった。
敵はいつも「ハラスメント」と、「集団による暴力性」だった。
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夏秋冬にかけて悩みすぎて人のことが大嫌いになり、孤独をきわめていた。
人なんてどうせ私の文章を読んでもわからないだろうと思ったし、
自分をさらけ出し切り売りするようにして書いていること(my芸風)についても、
逆ギレ的に、
「読むんだったらお金くれ!!」と思った。
(『家なき子』の安達祐実? 「同情するなら金をくれ!」…古?笑。)
ここで一句。
売文=売春。お金くれるならオッケーよ👯
(↑急に俳句入るスタイル。)
ブログは途中で止まった。
ときどき気分が浮上したら外に出かけて行き、
けんかを売ったり人や文章に当たったりした。
(これは反省ではないんです。その私も私。)
その時の文章は書いていても何を書いているのか自分でもわからなかったしだいたい何も書きたくなどなかった。
……泣く泣く泣くーーー!!
すぐ泣く。おしっこ。
(「涙は女のおしっこ」by大久保佳代子。)
(ちょっと一服。泣き時間。)
今泣いているのは、つらかった当時の自分について思い出したからではない。
その調子の悪い時に書いた私の文章を、
その時々に友達が読んで、いいと言ってくれたことを思い出したからだった。
とりわけうれしかったのはあたらしい友達の存在と、
ずっといいと言いつづけてくれる友達のこと。
=つまり全員。
また、文章じゃなくても私が思い悩んでいること
(当時の話題は、「自分の表現が果たして伝わるのかどうか?」と、
「手紙に返事はいらない(ほしいけど)」問題)
を、そこにいた人々がただ受けとめてくれたことだった。
そのことが私をなぐさめ、少しずつ生き返らせていった。
学校で得たものは何だろうと考えていた。
授業にはたぶん半分も出ていない。
私は一緒に何かをしたということもあまりなかった。
もしかしたら何もなかったのかもしれない。
私は学校に行かなくても今ここにいたのかもしれない。
ふとここで、名前は? と思う。
苦手なことだったけど最初に言われるまま無理やり自分に名前をつけた。
うんと悩んでユニコーン(ピンクの馬)がかわいく思い、
「ユニコ」ってことにした。
(今だったら「ナマコ」…一日中布団から出られずにごろついている日の私…
にするかも。←これは名前について語る気恥ずかしさを隠した脱線。)
名付けた直後に、恥じながら名乗った。
瞬間に呼ばれた。
ユニちゃんとかユニコちゃんとか呼ばれはじめたのはすぐのことだった。
え…? そうなの? そういうことなの???
最初は奇妙な感じがしてたまらなかった。
いや、誰それ?って……、
自分に苦笑していたのはいつ頃までだっただろう。
その名前を呼ぶときみんなはニコニコして私のほうを見ていた。
それで私はこれはいい名前なのだと知った。
最後に校長に名前を呼ばれたとき、ビクッとしたのはよそ見をしていたからじゃなくて笑、それが自分の名前だと考える前に思ったからだった。
1年前の私は自分に名前を付けていなかったし、
自分が付けた名前を呼ばれるときのあたらしいよろこびを知らなかった。
このことは、たしかに1年前と比べたときに「変わったこと」のひとつだった。
戦場カメラマンの私にとってこの学校はひとつの戦場だったのだろう。
どこにいても何をしても、どうしても無様に戦ってしまう外の世界のひとつ。
身一つでボロボロになっても突入してしまう場所。
何を得たのかはわからないけどわかっていて、
ひとつだけよかったって言いたいのは自分のことだ。
それは、最後に行くことができて、締めくくりができたことだった。
そういう自分でよかった……🖤ってすぐに思う(自分好き)その一方で、
これは私の力じゃないなーと思う。
かわらずやさしくしてくれたみなさんのおかげです。
ありがとうございます。
そして自由になったんだなと思う。
好きなことを好きな人たちとできる。
これからもよろしくおねがいします。
最後にクラスメートにいただいたお菓子。
かわいーーと思って取ってあって、
夜中に帰ってきた日に食べてうんまーーーーてなりました😋
本の出版のお知らせ
『快晴元年のアップルパイ』という本を出版することにしました。
ブログに書いていたことや、別の場所や自分だけで書いていたものをまとめました。
ブログという場があったので、書き続けることができました。
読んでいただいてありがとうございます。
また本も手に取っていただけたらと思っています。
『快晴元年のアップルパイ』
渡邊恵(ユニコ)著・挿絵、 こにしともよ 表紙絵、 やかましみさき編集、ずぶの学校出版 2019年4月20日発行
336ページ(帯つき) 3200円 フリーペーパー「ずぶぬれ8」(あとがき収録)も同時発行
~あらすじ~
2017年11月10日にセクハラ・パワハラを受け、勤めていた高校を退職した筆者が見つけた自分を生きやすくする技法は「人に頼むこと」。何もかもを一人で引き受けすぎないことに注意しつつ、お話会、海外旅行、引っ越し・・・と周囲の協力を得て敢行する。
しかし、災害やもろもろの社会問題に直面。再び「孤独」の暗中をさまよいながら、必死のパッチで考え、問い、反省し、怒り、泣き、時に笑い、表現することによってしだいに「人間」として息を吹き返していく約一年間の思考の跡をたどる、小説っぽい実話の記録。
記念のお話会も行います。
~『快晴元年のアップルパイ』出版記念お話会のお知らせ♪♪~
4月20日(土)13:00~15:00 場所 ずぶの学校
*予約不要 *会費はカンパ制です
メール→megumi_rozzie@yahoo.co.jp
Twitter→@RozzieMegumi
ご購入やお問い合わせは、以下のアドレスにご連絡ください🍎
megumi_rozzie@yahoo.co.jp