むりむりちゃん日記

私が孤独なのは私のせいではない

マーキーさんに読んでもらうと

前回↓のつづきで、ラジオにおたよりを出したことについて書きます。

murimurichan.hatenablog.com

 

クズな自分の罪をブログに書いた後、ラジオにおたより送ったら(テーマが「ごめんなさい」だった)、案の定読まれて(ありがたし!)、そこからしばらくまた考えていた。

 

クソな出来事の乗り越え方というか方向転換というか、色の塗り替えっていうかについての方法。

 

最悪な出来事があった時、腹心の友(by『赤毛のアン』)だけが救いの神というわけじゃないんだな。

 

わかってくれる友に宛てて渾身の手紙を書くという方法じゃなくても、

死ぬ一歩手前の気分で、ドタキャンならぬドタアポ(ドタンバアポイントメント)で必死に、友にその日の夕食の約束取り付けなくても、

LINEにはおよそ不向きな一体何スクロールすればいいのと困惑させる怒涛の長文メッセージ夜中までかかって送らなくても、

(=

自分を回復することができるんだ……。

 

ラジオ( FM COCOLO 「MARK'E MUSIC MODE」)で、

マーキーさん(DJ)に読まれた私の「ごめんなさい」ストーリーは、マーキーさんの声を通すことでもうすでに最初から私の手を離れ、すっかり私のものではなくなっていて、あ、そういうことなんだなとすとんとわかった。

それは、救いの経験だった。

物事に固執し、頓着して追及しすぎる私の、罪についてのエピソードを、そんなことはつゆ知らず、マーキーさんがいつもの通り、明るくてやさしい声で気軽に読むと、それは、単なるうっかりした失敗に聞こえて、私のものではないことのように聞こえた。

それは嫌なのでは全然なくて、なんというかひとりではなくみんなの話になったという、つまり、なぐさめのような感じがした。

悪い意味でなく、生きていたら出くわすことのあるかもしれない、よくあるひとつのエピソードという。

こんなにもいつも、最後の最後まで自分であることに執着し続ける私が、一般化されることをよしとし、それどころか心地よく、あるいは言いすぎでないといいのだけど、ある意味で赦されたような気持ちになるなんて。

 

つまり、私は自分の話を、誰かの声を通して読まれることによって救われたのです。

あれは、マーキーさんか、その他の多くの人のストーリーで、それ以上でも以下でもなくて、それでいいんだと思えた。こんなことは初めてだった。

 

マーキーさん、読みながら、「ありゃりゃ~ヤッテシマッタネ」という感じと、 「わかりますよ~ついやっちゃうんだよね」という寄り添いと、「タイで放送されてたらよかったのになあ」という祈りと、「手紙書いたらええよ~」というなぐさめ。

これ完璧じゃない? マーキーさん、ケアのプロじゃない??

 

クソな自分の性格は自分で反省するとして、それを自分か、わずかな(と思い込んでいた)理解者の中に閉じこもっていくだけではない方法があるんだと、ほとんど初めて知ったのです。

 

渾身の手紙(という点は同じ 笑)を、腹心の友に向けてだけでなく、広く発表していきたい。

そうしたら、自分が受ける作用だってあるんだ。

それをこれからDONDONしていきたいと思います!

 

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オランダで飲んだミントティー。ミントをお湯にぶっこんだだけじゃ……。

疲れがとれて、すっとしました~